死ぬべき人間だ-絶望から-摂理女子Ami

「小さな私を救い出してくださった」2
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社会人女性 AMIです!

私と摂理との出会いは、あまり理想的なものではありませんでした。

 

「小さな私を救い出してくださった」5

主日礼拝に出て「摂理人」としての人生をスタートさせた頃、
「鄭明析牧師が分からない」ことと、「宗教への抵抗感」から、
鄭明析牧師や摂理のことを斜めから眺め、距離を保ち、自分の心を守ろうともがいていました。
今思えばとても残念な状態なのですが、それゆえにか、初心の熱い思いを抱くよりは不信と疑いが強く、哲学科であったこともあり、
「真理」と言われるものを探し、摂理の他にも様々な思想に触れながら真実に正しいものを探してもいました。
一方で、ここが本当に正しいのか、他人の言葉ではなくて、必ず自分自身で確かめてみたいという思いも強くありました。
その動機の裏には、半信半疑の状態から抜け出したい切実な思いと、ここが正しいとはっきりと認めたい気持ちと、
ここの他にどこにも真理はなく、私が生きていける場所はない、という思いもありました。

 

「小さな私を救い出してくださった」6
「神様は私を愛してくださっている」
と、何度御言葉で教えてもらっても、主の愛の御手を振り払うように拒絶し、
「私は決して誰からも愛されることのない人間だ。生きていてはいけない、死ぬべき人間だ。」
と、頑に、強く、主張し続けてきました。
「能力のない私」
「見た目のよくない私」
「話のできない私」
「声の出ない私」
「機転のきかない私」
「居場所のない私」
「迷惑な存在であるだけの私」
摂理に来る前、否定的な自己評価を積み重ねてきていたことの後遺症が、摂理に来て生きる中でも、尾を引きました。
私は果たして生きていてもいいのか
生きることが許される存在であるのか
存在意義はあるのか
役に立たないゴミのような人なのに…

 

「小さな私を救い出してくださった」4
「あなたは神様から愛されるために生まれたのだ」
「あなたを愛している」
と御言葉を通して神様の愛を知りながらも、そのことを受け入れて認めることに、非常に強い拒絶感がありました。
自分のことを自分自ら壊そうとし、
「おまえは死ぬべき人間だ」
と、どこからともなく聞こえてくる声に支配されるようで、
心が凍るように焼け付く苦痛と、寂寞とした寂しさ、屈曲した挫折感が、離れることがありませんでした。

 

「小さな私を救い出してくださった」3

愛に飢えながらも愛を否定し、自らの存在を肯定されることを望みながらもそれをまた自ら否定し、
真理を求めながらも、非真理の主張に屈する日々を過ごす中で、
御言葉を通して神様が
「死ぬな。摂理で生きろ。」
とおっしゃってくださったことは、とても大きな転機でした。
この私に、「生きろ」と言ってくれる人がいる
迷惑なばかりの私が生きることを望む人がいる
お荷物でしかない人なのに、むしろここで生きろと言ってくれる人がいる
それが私にとって、本当に、救いでした。
それは、私が摂理に来て2年目の冬の出来事でしたが、暖かな主の愛の一端に触れた瞬間でした。
それからも、神様の愛から逃げるような放蕩は続き、
数年の時間がかかりましたが、癒しを受け、今も神様に脳を治療していただきながら、
以前に比べるならば、まるで天国のような日々を過ごしています。
「小さな私を救い出してくださった」

神様が御言葉を通して
「あなたを愛している」
と度重ねて話す中で、
それをことごとく拒絶し続けてきた私を、どうして諦めることがなかったのか、とても不思議でなりません。
どれだけ愛していると説き聞かせても、自分の主張を捨てることのできない人を、愛し続ける事は、普通はできません。
あなたしかいない
と、たった一人の人間として いだいてくださる神様の愛のもとで、今は生きています。
生きる事を諦め自ら倒れるばかりの私を、神様が命がけの真実な愛と犠牲で、生かしてくださいました。
「死にたい人、辛い人、私の所に来なさい。私が救ってあげる。」
という約束の通り、神様は命を生かされました。
心からの感謝を捧げます。
死ぬ道を歩む他のなかった小さな私を救い出してくださった聖三位の愛に心からの感謝を捧げます。
ハレルヤ!

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