ポンソク牧師の涙と笑顔

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

誰よりも汚れていた靴

月明洞の開発は、毎日続く。
技術のある方もいらっしゃるし、手作業の方もいる。

世界各国、様々な方々が関わっている。

鄭明析(チョンミョンソク)牧師の弟であるポンソク牧師は最前線に立ち、一番危ない場所で工事作業をする。
椅子に座って眺めているようなことは決してしない。

どこから見ても、そのことがとてもよくわかる。

2016年11月 月明洞での出来事。
お昼になり作業から帰られたポンソク牧師に、お疲れ様ですと挨拶をした。
疲れているはずなのに、笑顔で返してくださった。

靴を丁寧に脱ぎ、御子愛の家に入っていかれた。

靴をふと眺めると、その靴は誰よりも汚れていた。

落とせる範囲の汚れは落としていらっしゃった。
しかし、長い間の作業の汚れが層をなしていた。

違いは靴にも表れるんだな。
涙が止まらなかった。

私の人生は頭のてっぺんから足のつま先まで見た時に、その生が現れるほど懸命に神様の為に生きているのだろうか。

 

お台場での出来事

お台場でポンソク牧師とご飯を食べたことがあった。
私はご飯の時間より、そのあとにお台場を皆で散歩したことのほうが楽しかった。
10人くらいでの散歩。

 

ポンソク牧師は普段、建築に携わっているから
建物があると たまにそれを軽く叩いて材質などを見ているらしい。

エレベーターホールの壁を幾つか叩いていた。

私やその場にいた人たちも叩いてみたけれど、よくわからなかった。
私のような凡人とは やっぱりポンソク牧師は違った(笑)

 

そして、私が思わず日本語でお台場を説明してしまったのだが
ポンソク牧師はなぜかうなずいて聞いてくれていた。
不思議な出来事。

 

また、私がお台場の景色を見ながら「すごいーきれいー」と言っていたら
ポンソク牧師は、「すごいー」と真似していた。

厳しい表情の時もあるけれども、ポンソク牧師は普段は気さくで優しい方。

 

このとき、ポンソク牧師の娘、息子もいた。
親子で本当に仲が良く、延々と話が続いていた。

娘さんも息子さんも、とても楽しそうだった。

 

痛くても笑顔で御言葉を伝える

ポンソク牧師

天はよほどのことが無い限り
自分の痛い思いは話されない。
後で実はということがよくある。

心配をかけないように
心配をかけるよりは 私達のことを愛してるから
私たちへの愛の言葉を先に話す。

 

自分が苦しい、痛いというのは本当に最後か終わった後だ。

 

2014年、月明洞でスポーツ関連の集まりがあって
ポンソク牧師が御言葉を伝えられた。

写真を見たら
ポンソク牧師の右腕が固定されていてビックリして、聞いてみた。
ポンソク牧師は肩を痛めているとのことだった。

 

そんな中でも、壇上にきちんと立って、長い時間御言葉を伝えて下さり涙で祈られていた。

 

御言葉が終わった後は
人々と笑顔で握手をかわしていた。
いつも苦しい姿を決して見せることが無いポンソク牧師。
でも、とっても愛情が深いポンソク牧師。

 

語る時は本当に真剣で、あまりにも心に入って涙を流すしかない。

 

神様の思いを実直に語ってくださる方。
そして言葉で語る時間より、行いで語る時間の方が長い方。

天を愛する心が強くて、
その愛は岩のようで、
人々を傷つける全ての物から守ってくださるような方。
私は尊敬という言葉では足りないほど、尊敬し信頼している。

強い愛情。
そんな言葉が似合うポンソク牧師。

私が接した時、お菓子やデザートを出してくれて、
神様の深い思いの話をしてくださった。
本当に涙が止まらなかった。
真実な言葉は全てを越えて人の心に届く。

 

ポンソク牧師は
神様の御言葉からぶれない。

 

御言葉自体は神様が下さるものだから当然ぶれないけれども、人間の心が原因でぶれることはよくあるのではないだろうか。

 

でも、このポンソク牧師は違う。
「自分を捨てた」
からぶれない。

 

自分を捨てるとはどういうことか?
例えば結婚生活をしていて、自分の奥さんが片づけが苦手だとする。
でもそこで「何で片付けないんだ!」という前に自分が片付ける。そういうことだそうだ。

 

実際、自分を捨てるということはなかなか難しい。
それが出来たら神様にもなれるし、
どんな艱難苦難困難が押し寄せても全く平気な気がする。

 

ポンソク牧師は確かに自分を捨てていた。

 

家族もいる立場で、
いろいろ神経を使うことも多い立場けれども
主が第一だから、自分の考えと意思を捨てて
ただ主の意思に従った人。

 

そうでなければ世界各国の人々の為に、
日夜動き回れるはずもない。

 

そして自分を捨てても、
主のことは勿論捨てないし、
摂理のメンバー達のことも捨てないし、
大学生のお子さん達など、家族のこともとっても大切にしている。

 

私もそのように生きたい。

 

一人一人を大切にする姿

天下よりも貴重だということを、その正確な意味を悟らなければ自分が貴重だと分かることができません。
人々、一人一人の代わりは誰にも出来ないのです。

だけれども、それを考えない人は果敢に戦争をしようとします。
戦争で何人死んだ。それでも1000万人のうちの1人。そう考えるのです。
神様は<多くの中の貴方>ではなく、神様は<一人一人を、一対一で>見ています。
子供がいくらたくさんいても一対一であるようにです。

神様は人間を個性体に創造しました。
その人からしか得られないものがあります。
神様は一人の命を天下よりも貴重に思います。

皆さん一人一人があまりにも貴重なのです。

ポンソク牧師は、そのように話をしてくださった。

私もそのような心でブログを毎日書きたい。
私のブログの記事が、この地球上、いやこの後に産まれる後世の人達も含め
誰か一人の為に届いたらそれが一番嬉しいなあ。

これを読んでくださってる方の心の苦しみが少しでもとれたら
それが一番嬉しいなあ。

神様があなたを愛しているということが、たった一人のあなたに伝わるのであれば
それが一番嬉しいなあ。

指に土もつけず、命令ばかりしているのではなく、一緒にやってこそです。

そうすると天国のような世界になります。

行なうこと自体が証です。

私たちが出て行って、叫ぶだけではなく、神様が願っていることをやって差し上げることが証なのです。

 

ポンソク牧師は、自ら「行なう」ということを、兄である鄭明析牧師から学んだ。

「行なう、一緒にやる」

自分が指導者であれば尚更だし、ついていく側にとっても同じことが言える。

 

歴史は神様だけでは成せない。
神様だけが頑張って歴史を成すことが出来るのであれば、
宇宙創世の時点で全ては完成していたはずだ。

イエス様が生きていらっしゃった時、
イエス様に向かってことごとく多くの権力者達が反論をした。

 

しかし、その権力者たちの生き方はどうだったか。
実際に何をやっていたのか。
イエス様の生き方や行なったこと、
実践したことには誰も追随出来なかった。

 

言葉は行った時に共に歴史に残る。
行いの無い言葉は決して歴史には残りませんし、歴史も起きない。

 

話すことや意見を言うことは簡単。
ですがそれを実際にやり遂げた時に、初めて歴史が起こる。

世界の歴史で行わないで言葉だけ残っていることは、どこを見渡しても全くない。

行なって初めて、そこで自分自身が変化する。
摂理の指導者教育で、たびたび「行なうこと」について話がでる。
実践主義の摂理に来れて本当に良かったと心底思っている。

 

ポンソク牧師と言えば、実践する指導者。その言葉がいつも思い浮かぶ。

投稿者プロフィール

RIO
東京都出身。高校生の終わりごろ、摂理教会に来てから早21年。教会内のあらゆる役割を経験。
現在は、つくば市在住。教育関連事業で邁進中。
好きなものは猫。
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

関連記事一覧

  1. 指導者の視点
PAGE TOP