「終わりまで」行く人だけが勝利する。/画像で見る箴言

月明洞 八角亭
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摂理の鄭明析牧師の御言葉、マンデーでは画像付箴言で振り返ることが出来ます。綺麗な画像があるのと無いのとではやはり違いますね。今回は一挙、先週分の摂理明け方の箴言を振り返るべく、画像を掲載致します!

 

「最後の締めくくり」ができなければ、希望が壊れる。

「最後の締めくくり」ができなければ、希望が壊れる。

 

中間まで点数がよくても「終わり」に諦めたら勝利者だと言えない。 中間までよくできなかったとしても「終わり」によくやったら運命が変わる。

中間まで点数がよくても「終わり」に諦めたら勝利者だと言えない。
中間までよくできなかったとしても「終わり」によくやったら運命が変わる。

 

「終わりまで」行く人だけが勝利する。

「終わりまで」行く人だけが勝利する。

 

「すべき時」にしてこそ、集中してよくできるようになる。 「すべき時」にせずに後でやり直したら、 その時はそのことに再び集中しなければならないので、 きちんとできず、早くできない。

「すべき時」にしてこそ、集中してよくできるようになる。 「すべき時」にせずに後でやり直したら、 その時はそのことに再び集中しなければならないので、 きちんとできず、早くできない。

 

仕事は「最後の締めくくり」をきちんとしなければならない。 仕事の「最後の締めくくり」がどれほど大事かというと、 服を全部着て装った後、最後に鏡を見て手入れをすることのように大事であり、 文章を全部書いて校正をし、整理をすることのように大事だ。

仕事は「最後の締めくくり」をきちんとしなければならない。 仕事の「最後の締めくくり」がどれほど大事かというと、 服を全部着て装った後、最後に鏡を見て手入れをすることのように大事であり、 文章を全部書いて校正をし、整理をすることのように大事だ。

 

「最後の締めくくり」を完全にしない人は、 ちょうどサッカー場に観衆がいっぱいいるところで、 相手の選手を抜いて相手のゴールの前に行って、 「シュート」をしないで突っ立っている人と同じだ。 だから、その仕事をほとんどやったのに、 最後にその仕事の労苦が無駄になるようにする。

「最後の締めくくり」を完全にしない人は、
ちょうどサッカー場に観衆がいっぱいいるところで、
相手の選手を抜いて相手のゴールの前に行って、
「シュート」をしないで突っ立っている人と同じだ。
だから、その仕事をほとんどやったのに、
最後にその仕事の労苦が無駄になるようにする。

 

<自分のすべきこと>を前にして「時間」を奪われた人は、 ちょうどサッカー場で相手にボールを奪われた人と同じだ。

<自分のすべきこと>を前にして「時間」を奪われた人は、
ちょうどサッカー場で相手にボールを奪われた人と同じだ。

 

<自分が目的としたこと>のために<その仕事>をしつつ、「時間」を奪われるな。

<自分が目的としたこと>のために<その仕事>をしつつ、「時間」を奪われるな。

 

全能なる三位一体は「炎のような目」で「いつも」人間たちを眺めていらっしゃる。 ‐神様が「しばし」顔を他の所に向けると、その瞬間に「人間の日の数年」が過ぎるからだ。 だから人間が毎日毎瞬間、生活の中で三位一体を呼んで、自分を知らせないといけない。 そうしなければ三位一体が「瞬間」違う所を見られた時、「自分の人生」が一瞬で過ぎてしまう。

全能なる三位一体は「炎のような目」で 「いつも」人間たちを眺めていらっしゃる。
‐神様が「しばし」顔を他の所に向けると、 その瞬間に「人間の日の数年」が過ぎるからだ。 だから人間が毎日毎瞬間、生活の中で三位一体を呼んで、 自分を知らせないといけない。
そうしなければ三位一体が「瞬間」違う所を見られた時、 「自分の人生」が一瞬で過ぎてしまう。

 

生活の中で毎時間<三位一体>を探し、 <すべきこと>を早くしなければならない。

生活の中で毎時間<三位一体>を探し、
<すべきこと>を早くしなければならない。

 

幼かった時は分からなくて、幼くて、弱くてできなかった。 今は分かって、成長し、強くなったからできる。 「一日」さえしっかり行なえば、幼い時に「10年、20年」間やってもできなかったことができるようになる。

幼かった時は分からなくて、幼くて、弱くてできなかった。
今は分かって、成長し、強くなったからできる。
「一日」さえしっかり行なえば、幼い時に「10年、20年」間やってもできなかったことができるようになる。

 

<人間が悟って、分かった時>の「1時間」は、 <分からなかった時>の「10年」より、もっとはるかにましだ。

<人間が悟って、分かった時>の「1時間」は、
<分からなかった時>の「10年」より、もっとはるかにましだ。

 

全能者神様と聖霊様と御子はすべてご存知だ。 だから「一日10時間、5時間」を投資したとしても学びなさい。 そうすれば「分かった時の一日」が「分からなかった時の1000日」よりましだ。

全能者神様と聖霊様と御子はすべてご存知だ。
だから「一日10時間、5時間」を投資したとしても学びなさい。
そうすれば「分かった時の一日」が「分からなかった時の1000日」よりましだ。

 

地球世界70億人の人たちのうちで、最も大きい人は「分かっている人」だ。 なぜか? 分からなければ、できないからだ。 神様と聖霊様と御子は「分かっている人」をお使いになり、「分かっている人」にその御心を知せてくださり、「分かっている人」と共に行なわれる。

地球世界70億人の人たちのうちで、最も大きい人は「分かっている人」だ。
なぜか? 分からなければ、できないからだ。 神様と聖霊様と御子は「分かっている人」をお使いになり、「分かっている人」にその御心を知せてくださり、「分かっている人」と共に行なわれる。

 

親の遺伝もあるが、「時代」に従って、大変な時に生まれたら背が伸びない。 これと同じく、<信仰の成長>も「時代」に従って、 「旧時代の時」はもっと大きくなれなかった。 今<御言葉>を無限に与えるから、聞いて実践すれば、 信仰も肉も魂も霊も無限に変化が起こる時代だ。

親の遺伝もあるが、「時代」に従って、大変な時に生まれたら背が伸びない。
これと同じく、<信仰の成長>も「時代」に従って、
「旧時代の時」はもっと大きくなれなかった。
今<御言葉>を無限に与えるから、聞いて実践すれば、
信仰も肉も魂も霊も無限に変化が起こる時代だ。

 

<明け方の時間>には、「信仰的に一日中やってもできない仕事」ができる。

<明け方の時間>には、「信仰的に一日中やってもできない仕事」ができる。

 

実際に科学的に見ても、「明け方」には、脳が10倍も聡明だ。 脳が聡明な時に考えなさい。

実際に科学的に見ても、「明け方」には、脳が10倍も聡明だ。 脳が聡明な時に考えなさい。

 

遅れても行ないなさい。時間がなくても行ないなさい。諦めは禁物だ。

遅れても行ないなさい。時間がなくても行ないなさい。諦めは禁物だ。

 

御子は「ちょっと待った!」と呼び止めて 「私たちが考えていること、行なっていること」をもう一度見るようにさせる。 そして「そのようにしてはいけない」とおっしゃって、 「私たちが正しくすべきこと」を悟るように感動を与えて下さる。

御子は「ちょっと待った!」と呼び止めて「私たちが考えていること、行なっていること」をもう一度見るようにさせる。そして「そのようにしてはいけない」とおっしゃって、「私たちが正しくすべきこと」を悟るように感動を与えて下さる。

 

「ちょっと待った!」この言葉の中に「災いを避け、祝福を受ける方法」と「財を得る方法」と「畑に隠してある宝を見つける方法」が入っているし、「悪を滅ぼし、悪評者を滅ぼす方法」と「世の中を治め、自分を治める方法」が入っている。

 

「ちょっと待った!」この言葉の中に「災いを避け、祝福を受ける方法」と「財を得る方法」と「畑に隠してある宝を見つける方法」が入っているし、「悪を滅ぼし、悪評者を滅ぼす方法」と「世の中を治め、自分を治める方法」が入っている。

 

皆さん、いかがでしたか?特に摂理メンバーにとっては御言葉を振り返る時間になったでしょうか。私は画像を見ながら思ったのは「わ、忘れてる!!!箴言!!(-ω-;)」聞いた時は、「そうか!」って思うのに忘れてしまうんですね。。。いつも希望をもたらしてくれる箴言、振り返りが大事ですね。

 

特に「ちょっと待った!」という箴言は今年、大事な箴言の一つという話があったのでちゃんと心に刻んでおきたいと思います。ちょっとの差で運命が左右する。誰でも経験があったことではないでしょうか。
忘れないように、私の体験を振り返ってみたいと思います。
簡単な事例をまず最初に。

 

中学入学後、最初の数学のテスト。
その時、試験時間 最後の最後で見直しをしたんですね。
よくやりますよね。最後の見直し。
間違っていたところを直しました。

 

これが運命(笑)を左右しました。
100点満点をとり、その後一年間、何故か私は学年を超えて注目を集めることが多かったです。

 

隣のクラスからも
「あいつ、100点とったらしいぜ」
と、よくうちのクラスに人が私を見にきていました。

 

って、別に自慢話では決してありません(笑)

 

最後の最後で見直しはやはり重要ですよね。
まあテストは命はかかってませんが、時に命を左右することさえ「ちょっと待った」で運命が左右します。ここでも事例をあげてみます。「運転」です。私は運転歴が長いのもあってか、幾つもこの事例はあります(-ω-;)

 

<1>子供をひきそうになってしまった事件
ガソリンスタンドを出ようとしたとき、歩道を30代の女性が自転車で通り過ぎました。
「よし、誰もいないな。」
と思ってアクセルを踏もうとした瞬間、もう一度歩道を見ると6歳くらいの子でしょうか。小さな自転車でお母さんの後を追っていきました。

 

体が小さな子だったので、私の運転席からは殆どその子は見えなかったんで。もう一度、私がちゃんと見なければ、その子を私はひいてしまっていたことでしょう。私はアクセルを踏むことはなく、何事も無かったように終わりました。とっても怖い瞬間でした。

 

<2>急に飛び出してきた男の子
摂理メンバー達と一緒に、スポーツをするために体育館に向かっていた時のことです。この時は少し急いでいたのですが、ある道路を走っていた時は何故かゆっくり走っていました。そしたら突然。小学校5年生くらいの男の子がと自転車で飛び出してきたのです。

 

私は慌てて急ブレーキを踏みました。すぐに車は止まり、男の子も無事でした。その後、お母さんが後ろから真っ青な顔をして「すみません!!」と謝ってきました。私は放心状態でした。

 

心に「何となくこうしておいたほうがいいかな」と思うことがあります。その時は気づかなくても、それは神様からのメッセージだったのだと思います。もしスピードを出していたら、男の子をひいてしまったのは間違いないのですから・・・。

 

<3>衝突したタクシーとタクシー
これは私が見かけた事故です。タクシーが一台、スピードを出していました。そして右折しようとしていたタクシーもいました。その二台が衝突しました。お互い、スピードを出していて譲る気配は全くなかったのですよね。ちょうどこんな感じです。

出典:交通事故・損害賠償の基礎知識
 
もしそこで、ちょっとお互いに待つ=スピードをゆるめる、停止する 気持ちがあったのであれば、あの衝突事故は起きなかったことでしょう。

 

また摂理内で私が体験した「ちょっと待った」も書いてみます。

<1>神様への誤解
御言葉って、うつらうつら集中しないで聞くと、
神様が話したかった意図と
全然違って聞こえる時があるんですね。
 
人の話もそうじゃないですか?
後から良く考えるとそういうつもりで話したことでは無いことは明確なのに、その場では理解できないことありませんか?御言葉の中で、自分自身を褒めてくださっていることだったはずなのに、何故か寂しく思ってしまったり。神様が与えてくださった祝福なのに、それを祝福と思えなかったり。

 
私は摂理に来てからも、そういうことはよくありました。でも神様は私が分からなければ分かるように導いてくださいました。今もまだ誤解してることがあるかもしれません。続けて誤解が無いよう、祈って神様の御言葉をそのまま受け止められる人になりたいです。

 

<2>人への誤解
これは摂理じゃなくてもありますね。摂理は自分の信仰歴と同じく、人付き合いも続きます。和睦を好まれる神様ですから、兄弟姉妹と全く関わらずに摂理の生活をすることはまずありえないことでしょう。

 

私も摂理メンバーを誤解したこともたくさんありました。誤解する前に推測する前に、「ちょっと待って」祈れば良かったのに。確認すれば良かったのに。「きっとそうだ」と思い込んでしまうところから誤解が始まるんですよね。

 
まだまだたくさん摂理内「ちょっと待った」についてあるのですが、また追って書きますね。
今週も皆さんの全てが祝福されたものとなりますように。神様が必ず共にしてくださいますように。

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