[連載小説]指先に宿るは②

 ***

「――どうぞ」

 虚しいノックの後に響いた声は、かつての力強さは失われていて、今にも消え入りそうなほどに弱々しいものだった。

 扉を引く手に一瞬躊躇いが生じたが、唇を噛み締めたと同時、扉を開く。

 師匠が入院している個室は、広く、大きかった。その個室の大きさだけで、師匠が今までどれほど多くの功績を残して来たのか、痛いほどに感じられた。

「坊か、よく来たね。こちらにおいで」

 師匠が俺のことを呼ぶ。子供の頃に師匠の舞に心を奪われ、高校卒業と同時期に師匠の元へ駆け込んだ俺を、いつまでも「坊」と子ども扱いするのだ。

 俺は後ろ手に扉を閉めると、ベッドの脇に置かれている椅子にゆっくりと腰を掛けた。師匠は何を言うでもなく、優し気な目で俺のことを見つめている。

 十年ぶりくらいに見る師匠の体は、やせ細っていた。なんて声を掛けていいか分からず、互いの呼吸する音だけが病室に満たされる。視線をどこに置くべきか迷い、ただただ自分の膝に乗せた両の拳に視線を落としていた。

 そんな時だった。爽やかな風が開いた窓から入り込み、俺と師匠を優しく撫でた。流れる空気を追うように視線を上げると、俺の位置からでも窓の外に広がる桜景色が美しく見えた。師匠も同じように窓の外を見つめていた。

 一時見る分なら美しいこの景色も、一日中ベッドに座る師匠は、どんな想いで窓の外を眺めているのだろうか。

 きっと俺には師匠の想いを推し量ることは出来ない。

「私の流派は――、畳もうと思う」

「え?」

 外の景色に意識を向けていたため、師匠の言葉の意味を呑み込むのに時間が掛かった。

 言葉を返さない俺に、師匠は弱弱しく口角を上げ、

「今までたくさんの人に教えてみたけど、誰も私の舞を体現出来るものはいなかったからね。たとえ強く勇ましいライオンがいたとしても、その血を引き継ぐ者がいないなら、その強く勇猛な血統は断たれる――、それが自然の成り行きだよ」

 体が弱っていることは置いておいても、師匠の声は寂し気なものだった。

 師匠を慰めようと反論しようとしたが、何も言えなかった。師匠の言葉を一番痛感しているのは、俺自身だからだ。

 過去に背中を追い続けた師匠の舞は、この世の言葉では表現できないほど、美しく気高い。私生活全て――、それこそ指先一つにさえも舞へと捧ぐ生活に、ついていける人間なんて誰もいないのだ。

 師匠の舞は、まさしく神様の気まぐれだ。到底人間には至ることの出来ない芸術的な舞を、この地に落とし込んだのは師匠だけだった。

 だからこそ、俺は師匠の元から逃げ出したのだ。

 誰も舞うことの出来ない舞を舞った師匠の生き様は、この先伝説として語り継がれることだろう。

「ところで、坊よ」

 新たな話題を切り出そうとする師匠の声が、やけに明るく耳に届いた。「何でしょう」と、俺は訊ねる。

「最後に、坊の舞を見せてはくれないかい?」

 師匠はあっけらかんと笑いながら言った。その言葉と仕草は、俺の心臓を握りつぶすには十分だった。

「……最後にだなんて、言わないでくださいよ」

「すまない、言葉の綾でついね。でも、坊の舞が見たいのは本当だよ。今の坊がどのように舞うようになったのか、この目で確かめたいんだ」

 師匠の優しい声に、一瞬躊躇したが、俺は椅子から腰を上げた。そして、まるで舞うために存在する舞台のように広いスペースへと足を運んだ。前を向くと、ベッドに腰かける師匠が、大好物を目の前にした子供のように嬉々としていた。

 ――そんな目で、見ないでくれ。

 俺は俯きながら、扇子を握る手に更に力を籠める。

 多分、今この瞬間に舞う舞が、最後に師匠に見せられる舞になるだろう。

 俺はどのように舞うべきだろうか。

 その場に溶け込むために個性を押し殺した現在の舞か、それとも、どこまで体現出来るかは分からないが師匠に教わった過去の舞か。

 どちらの舞を舞ったら師匠が喜ぶのか、頭の中では取るべき答えを導き出していた。

 しかし、俺の中の良心が、模範解答を演じることを許してくれない。

 俺は師匠の期待を裏切って、他の流派に行った人間だ。しかも、裏切ることは疎か、その場所で師匠の教えをいいところ取りして、利用までした始末だ。そこには師匠の舞を体現しようなんて想いは一切なく、自分が楽して認められることだけを意識していた。

 そんな俺に、どうして師匠の前で舞を舞う資格があるというのか。

 究極の二者択一が、俺を襲う。扇子を持つ手が、いつの間にか自然と震えていた。この選択をどうするかによって、俺の将来は大きく変わる。いや、きっと何を選んでも、師匠を裏切った時点で後悔することは分かり切っていた。

 重圧に耐え切れず、唇を噛み締めながら、俺は師匠に顔を向けた。

<――③へ続く>

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