[連載小説]指先に宿るは③

「……っ」

 視線の先には、全てを受け止めるかのような達観した表情を浮かべる師匠がいた。

 昔ながらの懐かしい想い出が、俺の脳を駆け巡る。

 一つ一つ丁寧に教えてくれる師匠の姿、貧乏だった俺に自ら飯を振るう師匠の姿、舞を通じて人生をも教えてくれる師匠の姿、そして、当たり前のような教えを行なっただけでも大袈裟なくらいに喜ぶ師匠の姿――。

 いつも師匠を思い浮かべると湧き出ていた苦々しい記憶ではなく、今まで忘れていたことが不思議なほど、優しく、温かい記憶だった。

 扇子を握る手の震えは、自然と治まっていた。全身の力が、良い感じに抜けている。

 俺は目を瞑った。呼吸を整え、爪先に至るまで意識を全神経に傾ける。まるで俺一人だけかのように研ぎ澄まされた世界が、一身に感じられる。

 そして、目をゆっくりと開けると同時、

「――」

 一挙手一投足、全てに全神経を捧げるように舞を舞い始めた。

 止めるところは鳥が止まり木で身を休めるように穏やかに止め、動くところは水がとめどなく流れるように滑らかに動かす。

 まるで自分自身を世界と化し、世界の美しさをその身に体現させる舞は、まさしく師匠が一人で築き上げた流派そのものだ。

 俺はここまで育ててくれた師匠に、報いることにした。

 師匠から教わった舞は、まさに自分という存在を芸術へと昇華させるような舞だ。たかが舞一つに、ここまで投資する人は、この地球でどれほどいるのだろうか。俺が知る中では、たった一人しかいない。

 僅かな動きしかしていないにも関わらず、全身に嫌というほど汗が流れる。足も震え、指先も痺れ、脳も複雑な働きが出来ない。それでも、師匠から教わった舞を止めようなんて、思わない。

 師匠から教わった舞は、一つのズレも許されないような細かく厳しい舞なのに、なんでこんなにも楽しいんだろう。辛いはずなのに、上がる口角が止まらなかった。

 久し振りの感覚だった。

 この感覚は、師匠の前から逃げ出して以来、一度も味わったことがなかった。

 誰でも限界を越えることは、辛く、苦しい。実らない努力が虚しくなって、俺はいつしか無難な人生を歩むようになった。しかし、今は違う。乗り越えた先にある光を求め、俺は舞う。

 舞を通じて、俺という存在を世界に認めてほしくて、ただ一心に舞う。いや、世界なんてどうでもいい。俺が認めて欲しいのは、唯一――。

「――」

 舞いながら視線だけ器用に動かせば、師匠は真剣な表情で真っ直ぐに俺のことを見つめていた。昔からそうだ。弟子の舞を見る時、師匠は真剣な眼差しを惜しみなく注ぐ。そして、舞が終わった後、何が足りないのかを的確に言葉にしてくれるのだ。

「――坊」

 一瞬、師匠の唇が動いた気がした。いや、きっと気のせいだろう。舞の途中で、師匠が口を開いたことはない。ましてや、全てを受け入れるかのような優しい声で、俺のことを呼びはしないだろう。

 気のせいだと分かっていながら、俺の口元は自然と緩んだ。

 ――今この瞬間、師匠から教わった全てを表現しよう。

 嘘偽りのない単純な想いが、指先の細胞にさえも力を与えくれる。

 師匠と出会ってから、酸いも甘いも多々あったけれど、師匠と過ごした時間を後悔していないと――、こんなにたくさんのものを貰っていたのだと伝えるために、一心に舞い続ける。

 言葉では足りないけれど、舞でなら十分過ぎるほどに、この胸から湧き出る想いを伝えられるから。

「――はぁッ」

 一通り舞を終えると同時、息を押し殺して舞っていたことに気が付き、上を向く。汚れのない白い景色が、俺の視界を埋め尽くす。

 空気を吸い、空気を吐く。

 生きるためにする当たり前の行為が、やけにありがたく感じる。

 呼吸を整えながら、心地よい疲労だけが俺を襲っていた。

 師匠の教えを体現した時は、いつもそうだった。

 指先一つに至るまで極限に集中しているから、舞の最中はとても神経をすり減らす。けれど、終わった後は言葉では表現できないほど爽快で、新しい自分になれたような気がするのだ。

 懐かしい余韻に浸っていると、力強い拍手が舞台に鳴り響いた。

 天井から師匠の方へと顔を向ける。

「久し振りに坊の舞を見たけど、やっぱり気持ちがいいなぁ」

「……師匠」

「私の元から離れても、ずっと一つ一つの行動を大事にして来たんだね」

 師匠の指摘に、俺の頬に一筋の汗が伝った。

<――④へ続く>

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