[連載小説]心のアクセント③

 ***

「さて、小野くん。私が言いたいことは分かるかな?」

 佐鳥先生の静かな問いかけに、僕は無言で目を泳がせた。何も言わないことで、どうやら佐鳥先生は僕の内心を明確に察してしまったようだ。だけど、佐鳥先生は何事もないように笑顔を見せた。

「分かってるならいいの。実は、声のことでとやかく説教つもりは元からないんだ」

 むしろ、僕を安心させるように、大袈裟に手を振ってくれる始末だ。佐鳥先生は小さく咳払いをすると、

「最近の子がね、自分を前面に出すことが苦手なのは知ってるつもり。私も、前に立つなんてとんでもない、ってくらい嫌いだったもの。苦手なことを口出しされるのは嫌だよね」

 佐鳥先生の口から信じがたい言葉が出て来て、「先生も?」と思わず声が出た。

「うん。先生になる直前だったから、まだ鮮明に憶えてる」

 いつも明るく堂々としていて、時に生徒の笑いも取る佐鳥先生は、その若々しい見た目通り、まだ二十代だと生徒同士の噂で聞いたことがある。つまり、克服してから、少なくとも二桁の年数は経っていないということだ。今の佐鳥先生からは、想像も出来ない。

「その時はね、先生になりたいって夢がありながらも、生徒の前に立つことが出来なくて、ずっと迷ってた時期だった。まだ大学生だったわ。教育実習も失敗しちゃったから、もう普通に就活した方がいいのかしらって、ずっと思いつめていたの」

「それなのに、どうして……」

「ある人に教えてもらったの。もっと自分に目を向けなさいって。失敗とか矛盾とかに囚われていたら、本当の自分を発揮できないって」

 佐鳥先生は真っ直ぐに僕の目を見て言った。佐鳥先生自身が、ある人から信じて疑わない眼差しを注がれたのだろうと、想像するに容易かった。

「ハッとさせられたわ。その時の私は、何も出来ない自分に対して自己嫌悪を抱いて、一人で勝手に苦しくなっていたから。でね、その人の言葉もあったし、ちょうどタイミングよく似たような本も読んでいたから、とりあえず自分を責めることをやめたの。自分のいいところを探そうって思うようになって、必死に探したな」

 今日配られたプリントを思い出す。確かに、そこには自分の強みを記入する欄があった。

「そうしたらね、少しずつだけど自分に自信が持てるようになってきた。そしてね、不思議なことに、自分にだってこんなに良いところがあるんだから、他の人のも探してみたいって思えるようになっていたの。授業の終わり際に言ったようにね」

 佐鳥先生の話を聞きながら、「……それは、すごいですね」と僕は本心から賛辞を送る。佐鳥先生は嫌味を一切感じさせることのない、屈託のない笑みで、まるで子供のように頷いた。

「でしょ。私には、本当に衝撃的だったんだ。ある人の言うことを聞いて、自分に対する目を開かせてみたら、世界が百八十度変わって見えるようになった」

 真っ直ぐな佐鳥先生の姿を見て、羨ましく思えた。

 昔の佐鳥先生を見たことがないから分からないけれど、話を聞く限り、僕と似ているところがたくさんあった。だけど、今はどうだ。佐鳥先生は自分の殻を脱ぎ捨てて、丸っきり違う生活を送っている。

「……僕も」

 佐鳥先生みたいに、変わってみたかった。

 自分を否定し、周りから嫌われることを恐れ、何も出来なくなってしまった小野恭輔という人間を、覆してみたい。

 僕の言葉を最後まで聞かなくても、佐鳥先生は大きく頷いてくれた。

「小野くんなら大丈夫。私でも出来たんだもん。それに、若いうちからやった方が、変なクセもついていないから、きっとすぐに変われるよ。小野くんはまだ高校生になったばかりで、脳も柔軟なんだし、何でも出来るわ」

 すでに結果が伴っている人からの言葉は、僕の心に自信を与えてくれる。これからどうやって自分を変えていくのかは分からないが、少しずつ挑戦していこうと思った。

「前に一歩進むことを決めた小野くんに、一つだけヒントをあげる」

「ヒント……ですか?」

「うん。自分で気付いていないかもしれないけど、小野くんはもう小野くんにしか持っていないものを持っているわ。自分の感覚を、当たり前だと思わないであげて」

「……僕の感覚?」

 せっかくの佐鳥先生のヒントだが、僕には思い当たる節がなかった。もう一声欲しくて、「あの」と言ったものの、僕の言葉よりも早く何かを発見したかのように、佐鳥先生は僕の後ろに目線を送った。

「あら、早瀬くん」

 その言葉の内容は僕の予想外だった。佐鳥先生の視線の先を追いかければ、音楽室の扉の近くには、確かに早瀬秀がいた。秀には珍しく、口をまごまごとさせ、言葉を頭の中で組み立てているようだった。

「あー、その、佐鳥先生にちょっと確認したいことがあったので」

 秀は頭を掻きながら、そう言った。佐鳥先生は「あらあら」と僕にしか聞こえないくらいの声量で言うと、にこにこと微笑みを浮かべていた。

「ごめん、恭ちゃん。佐鳥先生と話している途中だったのに」

 面と向かって名前を――、しかも小学生の頃のあだ名で呼ばれると、僕は少しだけ焦ってしまった。秀から名前を呼ばれたのは、一体いつぶりだろうか。

「え、あ、いや、別にもう大丈夫……ですよね?」

 佐鳥先生に確認を取ると、「うん、大丈夫よ」と優しく答えが帰って来た。

「さて、と。小野くんは美味しいものでも食べて、リフレッシュでもして来なさい」

 時計を見れば、もう少しで昼休みのチャイムが鳴り始める頃合いだった。長時間経っていたと思っていたが、時間にしたら十数分ほどだったようだ。逆に言えば、昼休みに差し掛かってでも確認したいことが、秀にはあるのだ。ならば、少しでも早く長く話せるように、今すぐにでも音楽室から出て行った方がよさそうだ。

「佐鳥先生、タメになる話を聞かせていただいて、本当にありがとうございました」

「うん、私の話が小野くんの参考になってくれたなら良かった。歌の方も、少しだけ挑戦してくれたら嬉しいな」

「――はい」

 僕は佐鳥先生に頭を下げると、椅子から立ち上がって、扉の方へと向かった。僕が扉に近付くと、入れ替わるように、扉に体重を預けていた秀が音楽室の中に入って来る。

 音楽室を出る直前、もう一度部屋の中を見れば、佐鳥先生は子供のような表情で手を振っている一方、秀の方は爽やかな仕草で僕を見送っていた。

 僕はもう一度頭を下げると、昼休みで賑やかになり始めた廊下を歩き出した。

 少しだけ。

 佐鳥先生と話したことで、少しだけ気分が晴れている自分がいることに気が付いた。

 僕には珍しく、無意識の内に鼻唄混じりに廊下を歩き始めていた。今は何だか周りからの視線も気にならない。

「小野くんにも、心配してくれる友達がちゃんといたのね。ねぇ、最初から扉の前で――」

「ちょ、それ絶対に恭ちゃんには言わないでくださいよ」

 だから、僕が去った音楽室で、二人が開口一番に交わした会話を、僕は聞き逃していた。

<――④へ続く>

  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次