[連載小説]心のアクセント④

 ***

 新緑の温かな日が差し込む音楽室で、僕は音一つも漏らさないように同級生が奏でる発声練習を聞いていた。

 普段と変わらない各パート毎の練習だけど、注意深く聞けば、ちょっとだけ違うことに気が付く。前回の授業から、どこか皆の表情が変わり、少しだけ声に自信がついたように思えたのだ。

 今日から合唱コンに向けた練習が始まる、ということの他に、自分自身の内面と向き合ったことも変化が生じた原因の一つでもあるのだろう。

 僕自身も、佐鳥先生と話したことによって、気持ちの面では変わることが出来た。佐鳥先生のように、自分のいいところを見つけて、もっと自信に満ちて生きたいと思った。

 ――だけど。

 今までの短い人生の中で培ってしまった性根は、僕の中で根深く這っていて、決意しただけでは行動にまで移すことは出来なかった。今まで築き上げたものを、いきなり崩すのは難しい。

 バスの練習が行なわれた時、やはりと言うべきか、僕は声を発することは出来なかったのだ。ピアノで音取りをしてくれた佐鳥先生と目が合った時、自分自身が不甲斐なく感じられた。

 僕みたいに、どうしようもないほど内気な奴は、一人で意気込んだところで奇跡は起こらない。

 だから、少しずつ挑戦しながら、せめて高校を卒業するまでには自分自身を変えていこう、とそう決めた。

「小野くん、顔に皺が寄ってるよ」

「え、あ、本当に? ありがとう」

 柏木くんの指摘を受け、僕は顔全体を解すようにマッサージをした。

 そう。ゆっくりやろうと決めたのに、僕は自分の選択に悩み続けている。気持ちと行動の乖離に、僕は一種の歯痒さを感じていた。その思いが、周りから見ても分かるほど顔に表れている。

「では、各パートの練習も終わったので、今度行なわれる合唱コンクールに向けての一斉練習を始めます」

 前回の授業と一言一句違わない佐鳥先生の台詞に、教室の空気が固くなる。やっぱり、この前の課題の発表でもあるのではないか。

「あはは、安心していいわよ。今回は、ちゃんとした楽譜です」

 教室の空気を読んだ佐鳥先生が、手にしていたプリントを配った。言葉通り楽譜であることに安堵する。

 教室の中にいる生徒が楽譜を一通り目にしたことを確認すると、「さて」と佐鳥先生が口を開いた。

「今回、指揮をしてくれるのは、早瀬くんです。早瀬くんは自ら志願してくれました。併せて、今回のリーダーも務めてくれます」

「はやしゅー、お前真面目かよ」

「どうせやるなら、いいものにしたいじゃん」

 皆に認められながら、秀が前に出る。前回の授業の後で、佐鳥先生に確認したことはこれだったのか、と僕は一人納得した。

 秀は小さく咳払いを挟むと、

「じゃあ、これから練習を始めるけど、その前に曲の雰囲気を掴むためにも、今から名前を呼ぶ人に前に出て歌って欲しい。まだ伴奏は決まってないから、今のところは佐鳥先生にやってもらうけど、伴奏者は随時募集中だ」

 リーダーらしく、秀は早速スマートに練習を進行していく。堂々とした立ち姿は、秀に似合っていた。

 まずはソプラノ、アルト、バスから一人ずつ名前が挙げられた。名前を呼ばれた人は、確かに歌のセンスに長けている人で、いつも彼女たちの声はよく耳に響く。秀は、ちゃんと周りを見ている。

 そして、残りのテノールからも名前が呼ばれるかと思いきや――、

「小野恭輔」

 秀の口から、僕の名前が紡がれた。

 周りの皆はざわざわと動揺したが、僕ほどではない。僕は周りの人の視線を集めながら、「え、あ、なに」と震える声でようやく反応する。

「恭ちゃんは、これからテノールね。俺も指揮者で歌えなくなるから、宜しく頼むよ」

 あたかも当然のように、秀はあっさりと言った。

「い、いや、宜しく頼むって。百歩譲ってテノールになるってのは分かるとして、どうして僕が前に出て歌うのさ。いつもの練習でだって、声出して歌ったことなんてないのに」

「でも、恭ちゃんは昔から歌うの好きじゃん」

「――は」

 自分の意見を疑うことを知らない声音で、秀は言う。

「恭ちゃんは小学校の頃から歌うのが好きで、めっちゃ綺麗な声出してたじゃん。でも、周りが声変わりしていく中で、ずっと高い声をしてる自分が嫌になったんだろ。で、意図して声を低くして、そもそも歌うことさえしなくなった」

 なんで秀は僕のことを知っているんだ。というか、僕自身よりも秀の方が、僕のことを知っているくらいだ。自分の思いを隠し通せたと思っていたのに、恥ずかしい。

 顔を真っ赤にさせるだけで、僕は何も言えなかった。

「だけどさ、気分が良くなった時とか、よく鼻歌してるじゃん。しかも、音程がずれていないから、何の歌を歌っているのか一発で分かる。それって絶対、恭ちゃんにしかない強みだよ」

 そこまで知られているのかと、これ以上ないくらいに赤くなる。

「今更かもだけどさ、俺、恭ちゃんの声好きなんだ。……だから、リーダーの特権を使って、単純に聞かせてもらおうかなって」

 最後の最後で、秀はお茶らけるように言った。周りの人からは、「へー、はやしゅーがそこまで言うなら、聞きたいな」と期待に満ちた眼差しが注がれる。

 正直な話、僕は自分の歌声に自信はない。僕はただ歌を聞くことが好きなだけで、秀が言ったように、気分が高まった時に少し歌うくらいだ。

 だけど、僕にとって何でもないことを、秀は僕の強みだと言ってくれた。

 本当に僕が前に出ていいのかと、佐鳥先生に目を向けた。佐鳥先生は親指を立てていた。

 ここまでお膳立てをされてしまったら、逃げるよりも前に出ることの方が楽なのは知っている。整えられた舞台に、もう立つしかあるまい。

「分かったよ。――でも、あとで飲み物奢ってよ。久し振りで、多分ノド枯れるから」

 僕は喉を整えながら、秀にしか聞こえない声で言う。

「あぁ。何なら昼飯もセットだ」

 まるで友達同士で軽口を叩くような、そんなノリで秀は言った。思わず、僕はふっと笑ってしまった。

 僕は内気な人間だ。人前に出ることが苦手で仕方がない。

 だけど、それ以上に人から期待されているのに、その期待を裏切ることの方がもっと嫌だった。

 各パートを代表する四人が並んで立つと、皆の視線が集まっていることが分かった。今まで前に出ることで浴びる人の視線を気にし過ぎていたけれど、思ったよりも悪いものではないと思った。

「じゃあ、行くよ」

 佐鳥先生と秀がアイコンタクトを交わした。秀が腕を振る。佐鳥先生の指を伝って、ピアノから旋律が奏でられる。

 今でも、正直迷う心はある。緊張しすぎて、心臓もバクバクとうるさい。

 だけど、佐鳥先生は人は変わることが出来ると言っていた。秀は僕の性格を知っていて尚、僕の「声」を好きだと言ってくれた。そのことが、弱い僕の心を、強く押してくれる。

 前奏が終わるまで、あと四拍。

「――」

 息を吸い、開始早々に人々に希望を与えるような歌詞を、メロディに乗せて歌う。

 四人の歌声が同時に奏でられる瞬間を見た同級生の表情を――、僕はきっと忘れない。

<――終わり>

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