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何もない田舎で一夜を過ごし、朝とも昼ともつかない空気の中、ゆっくりと散歩していた。
本当にこの町は変わらない。嫌でも人と対面する東京と違い、全然人とすれ違わない田舎。人の声よりも、鳥や虫などの生き物の声の方が響く。ビルなんかよりも、もちろん自然の方が多い。まさしくザ・イナカと呼ぶべき風景で、俺が十八年間過ごした町そのものだった。目を瞑ったって、町の中を一周出来るほどに過ごした。
「母ちゃん達も、相変わらずだったし」
久し振りに帰省したというのに、母親も父親も姉も、今まで通りに接してくれた。それがどこか嫌で、俺は仏頂面を貫いていたと思う。帰ってから口にした言葉は、「うん」とか「そう」とか「へー」とか、そんな適当な相槌だけだった。実家帰ったら、夜飯食って、長旅の疲れですぐに自分の部屋で泥のように眠った。
起きた時も、姉は既にどこかに出掛け、父親は休日の惰眠を居間で貪っていて、母親は食器を早く片付けたいが故に俺が朝飯を早く食うように催促していた。
いつもと変わらない日常だった。
まぁ、九か月会わなかっただけで、俺の家族が変わるとは思えない。だって――。
「変わろうと意気込んだ俺が、なーんも変わってないもんな……」
東京に出れば、自分のやりたいことは何でも出来ると思っていた。大きな人間になれるのだろうと、勝手に思い込んでいた。アメリカンドリームならぬ東京ドリームを掴もうと思ったけど、結局は何一つ成長していない。
俺の唯一変わった点と言えば、服装だけだろうか。
この田舎では誰も着ないような、ブランド物のコートを纏っていた。そういえば、俺の近況については色々聞かれたけど、このコートについては何も言及してこなかった。生活費を確保しつつ、贅沢は控えながら、なんとか節約して買ったコートだったんだけどな。
「……はぁ」
コートのポケットに手を入れながら、空を見上げる。見た目だけ見栄を張っても、何の意味もない。
晴れ渡った空。俺はちっぽけな存在なんだと、余計に思い知らされる。その視界の端に、枝が見えた。俺は焦点を枝に移す。遊具が一つ二つしかないような小さな公園の敷地の中に、大きな木が佇んでいた。
「……お前も、か」
ここらへんのシンボルともされている木だ。小さな公園には似つかわしくない大きさの木が植えられていて、よく友達との待ち合わせにも使っていた。
懐かしさに手繰り寄せられるように、俺は公園の中へと足を運んでいた。木の前に立つ。唯一変わったのは、木目を見る視線の高さくらいだろうか。いや、雨風によってか、ところどころ木の表面は剥げていた。子供のころは、もうちょっとツヤみたいなものもあった気がする。
ふと木に手を触れようとした瞬間――、
「おやぁ、そこにいるお洒落なシティボーイは、もしかして仲吾里志くんけーの?」
気さくな口調と方言混じりで、背中越しに声を掛けられた。
面倒くさい絡み方なのに、不思議と厭味ったらしく感じさせない話し方。胸の奥に確かな安堵を感じながら、俺は木に伸ばしかけていた手を止めて、振り返る。
そこには、ボサボサというべきか、ツンツンというべきか、判断に迷うような髪型をした男がいた。服装は上下ともに高校指定のジャージで、左胸元の一部分は長方形に焼けている。
「……翔真か」
風巻翔真。俺の同級生もとい幼馴染……、腐れ縁と称してもいい奴だ。家は隣同士ではないが、同じ区画にあって徒歩数分以内だったこともあり、よく一緒に遊んだ。
「うわははははっ。久し振りやの、里志」
相変わらず、見てるこっちまで自然と明るくなってしまうような笑みを浮かべながら、翔真は軽快な足取りで俺に近付いて来た。
「上京してから初めてこっちで会うたな! いつからこっちに戻って来たんや?」
「昨日の夜から」
「なるほどのぅ。どうりで会わんかったわけや」
一人嬉しそうに納得する翔真に対して、俺の心境は複雑だった。正直なところ、家族以外の誰かと会う心構えは出来ていない。
「……なんで、こんなところにいるんだ?」
「んあ、日課のランニングじゃ。毎日ここらへん走っとるんじゃが、里志っぽい奴の影が見えたから近寄うてみたんや。そしたら、見事正解。うわははははっ!」
どこかの漫画の登場人物のように、翔真は陽気に笑う。翔真と接していると、実は上京なんてしてなくて、ずっとこの田舎町で暮らしていたんじゃないかという錯覚に陥って来る。それくらい翔真は、変わっていなくて、昔通りに接してくる。俺が不愛想に振る舞っているにも関わらず、だ。
翔真は笑い終わると、「で」と話題を切り替えた。
「東京ってどうなんや? 楽しくやっとるか?」
問いかけた翔真の顔は、俺のことを気遣っているようだった。
「……」
一瞬だけ言葉を詰まらせた。なんて言おう。出すべき言葉が浮かぶよりも早く、反射的に手が大きく動き出した。「やっぱすっげーぜ、東京って!」そして、唇も。
「ここにいたんじゃ味わえない経験も出来たんだ」
「お、そうけ」
「おうよ。町は賑やかだし、お洒落なカフェにも行けるし、スカイツリーで遠くまで見れるしさ、富士山だって気軽に行けるし、有名な社長の講演も生で聞けるんだぜ。得られるものがとにかく違うんだよなー、東京って!」
ネットの海に捨てたはずの言葉が、ここぞとばかりに浮上して、俺を介して外の世界に出ていく。やめろ。言いたくない、そんな嘘。けど、止まらない。上京してから誰とも話せなかった分、タガが外れてしまったようだ。
翔真が羨望の眼差しを注いでくれていた。翔真は、いつも人の話に真剣に耳を傾けてくれる。だからこそ、優越感と敗北感と色んな感情が胸中を抉る。
相槌を打っていた翔真が、「楽しそうで何よりじゃ」と言ったところで、すかさず「しょ、翔真はどうなんだ?」と問いかけた。
「俺か? 里志ほどじゃないけど、俺も充実しとるき」
急な話題転換だったにも関わらず、翔真は答えてくれる。
「えーっと、大学で農業の勉強しとるじゃろ。大学でサークルを立ち上げて、過疎化していく町をどう活性化出来るか、考えることが出来る場所も作ったけ。参加してくれる人、みんな意見が違ってて、めっちゃおもろいんよ」
指折りしながら言う翔真。その声からも表情からも、充実していることが伝わって来る。俺が捨てた場所でも、こうして何かを見つけて、楽しそうに生きられる奴だっているのだ。
というか、普通に俺よりも充実した生活を送っていて、羨ましくなった。
更に思い出したように、「あ、そうそう」と翔真が言った。
「最近は、知り合いの農家の人から土地の一部を借りて、試させてもらってもおるなぁ。この後も、ちょっと様子を見に行かないといけんの」
自分のやりたいことを着実に行動していく翔真。
「すげーな……」
つい口から漏れ出ていた。翔真は一瞬呆けた表情を浮かべたが、すぐにいつもの笑い声を出すと、「そんなことあらんわ」と手を横に振る。
「自分がやってみたいことを、勝手にやってるだけじゃ。周りにどれだけ迷惑掛けとるか、分からんけ。……本当、どれだけ感謝しても足りん」
周りに対する感謝の想いを忘れておらず、自分の夢に向かって突き進む。勝ち負けなんかじゃないけれど。なんとなく上京しただけの俺は、こいつにはずっと勝てない。
自分自身の情けなさを見せつけられたくなかったから、俺は地元に帰りたくなかったんだ。
「……俺、そろそろ帰るよ」
翔真といることに耐えられなくなった俺は、別れを切り出した。
「了解じゃ。せっかく地元戻って来たのに、呼び止めて悪かったけーの。おばさん達にヨロシク言っておいての」
爽やかに言う翔真に、俺は貼り付けたような笑みしか浮かべられなかった。ここで別れたら、俺は翔真と会うことはなくなるだろう。なんとなくそんな予感がした。だけど、それで良かった。
去ろうとした時、「あ、そうじゃ」と何でもないように、翔真が口にした。
「なぁ、里志。次はいつこっちに帰って来るんじゃ」
「次? ……あー、全然決めてないな。一年後か、もしくはもっと後か……。今日だって、本当は帰るつもりなんてなかったし」
「そうなんか。なら、ひとつ言うてもええか?」
ジャージのポケットに手を入れたまま、翔真が言う。俺は何も口にしないことで、続きを催促する。
「なぁ、里志。無理しとらんか?」
いつもの明るい声音とは異なる、真剣味を帯びた口調で問いかけた。
<――④へ続く>