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多紀が己の夢を自覚してからは、夢を叶えるための努力をずっと継続して来た。
たとえば、だ。多くの劇を生で見たり、流行のドラマも多く見た。自分の中で演技の引き出しを幾つも作ろうと、すれ違う人の人生を想像し、空想で演じてみたりもした。学生時代にクラス内で演劇をしたこともあったが、その時は多紀主導で行ない、妥協を許さなかった。
いつもレベル高く演技が出来る環境に身を置き続けていた。
だから、世間一般の高校生が作り上げる舞台を目にするのは、多紀にとって初めての体験だった。
「セリフ嚙んでるじゃない……」
舞台に立つ高校生が、顔を赤らめながら、舞台を進めていく。下手すると、小道具を持つ手が震える始末だ。
「緊張してるのが、こっちまで伝わって来る」
場面の暗転が、少しだけ早く、演者の台詞と重なってしまった。
「演出も、プロからしたら伝わらないわよ」
残念ながら、この高校が予選を突破することはないだろう。
プロの立場である多紀が見たら、足りないところが多すぎる。その足りなさを見逃すような真似を、審査員がするとは思えない。他の周りの学校の演技と比べて、五十歩百歩だったら話は別だが、その可能性もそうそうないはずだ。
最近の部活のレベルがこのくらいだとは、多紀は予想だにしていなかった。
やはりプロである多紀が、今更高校生の拙い演技を見たところで、学ぶべきことなんて何もなかったのだ。
そう冷静に分析する一方で――、
「どうして、目が離せないのかしら」
舞台で蠢く一挙手一投足すべてに、多紀は魅せられていた。
高校生の演技は、拙い。本当に大会に臨むつもりがあるのかと問いただしたくなるほどの、まさにお遊戯会同然のものだ。
しかし、舞台に立つ高校生は、真摯に演技に向き合っている。緊張も伝わって来るが、何よりも楽しそうにやっているのが、見ていればすぐに分かる。
その高校生の、幼く純粋な気持ちが、ホール中に伝播していた。
ここにいる人が、息を呑んで見守っている。多紀も自分がその一員になっていることに、ようやく分かった。
ここ最近、多紀はそんな純粋な演技をしただろうか。等身大の演技をする高校生の姿を見て、多紀は自問自答する。
いつも真摯に向き合って来たつもりだったけど、追い求めるベクトルが異なっていた。完璧に演じないとならないという思いと、楽しくやりたいという思い。最近の多紀が真摯に向き合っていたのは、前者だった。
楽しそう。
久しく向き合っていなかった感情が、ふつふつと多紀の心に湧き上がる。
その想いによって、多紀の胸の熱が燃え盛っていく。熱によって、心の中で何かが作られていく。おぼろげだった何かは、感情という炎で、何度も形を変える。何度も何度も。
そして、炎によって形が完成された時――。
「――ぁ」
多紀が胸の内の存在に気付いたと同時、ホール中に拍手が鳴り響いた。舞台上に立つ高校生は、全てを出し切ったような清々しい笑みを、くしゃくしゃに浮かべている。演技者だけでなく、舞台に関わった裏方の高校生まで表に立って、頭を下げて拍手を浴びている。
舞台は生き物だ。舞台を構成する要素が複雑に絡み合って、完成される。その完成形は誰にも分からない。まさか、あの拙い演劇が、このように拍手喝采で終えるとは誰が予想しただろうか。
けれど、その一方で、高校生たちのひたむきで楽しそうに演技をする姿を見ていたら、何となく予想を覆してくれるような気がしていた。
惜しみない拍手を浴びながら、幕が閉じていく。
拙いハッピーエンドを見届けた多紀は、急いで会場を後にした。
「――世宇!」
稽古場の扉を大きく開けた多紀に、稽古場にいた人々が振り返る。
唯一動じていないのは、多紀に名前を呼ばれた当の本人だけだ。いつも傍から俯瞰して見届けている世宇には珍しく、脚本を片手に役者に混ざって中央に立っていた。
「何? 今こっちは忙しいんだけど」
劇団セカイズの新作『私の世界を覆す魔法』が開始されるまで、残り一か月ほどだ。多紀はたくさん舞台を経験したから、今がどれほど大事な時期なのか分かっている。
「ごめん、世宇」
素っ気なく答える世宇に、多紀は誠心誠意を込めて頭を下げた。「それに、みんなも」と頭を下げながら、多紀は周りへの配慮を忘れない。
「私、自分の夢を叶えられると思って、自分の実力が認められていると思って、高慢になってた……。世宇に指摘されて、自分一人で考えるようになって……、そこで、私の身勝手な行動でセカイズにどれだけ迷惑を掛けているのか、痛いほどに分かった」
世宇も、志乃も、稽古場にいる人は、息を吞んで多紀の動向を見守っている。
「私の夢は、誰もが知る有名な国民的女優になること。けど、どうしてそうなりたかったのか、初心を忘れていたわ……」
そして、先ほどの高校生の演技を見ながら気付いた想いを、多紀は口にしていく。
多紀が演技の道を歩み出したのは、皆間真奈美という女優に魅せられたからだ。
初めて皆間真奈美に心を惹かれたのは、彼女が別の世界へと多紀を連れて行ってくれた。同じ世界でも、役者が演じれば、別の世界を作り出せることを知った。ありふれた多紀の世界を、彼女の演技が覆してくれたのだ。
もし真奈美に出会わなければ、多紀はずっと退屈な人生を歩んでいただろう。
「私は、可能性を知ったの。演技を通して、人の運命も覆せるんだっていう可能性を」
世界を広げてあげられる人になりたい。
辛い現実にいたとしても、多紀の演技を見ることで、別の世界もあるんだと考えを転換してほしい。劇を見るだけでは現実は変わらないかもしれないけど、せめて観劇している間だけは、現実を忘れてほしい。
そんな影響力を持った役者に、多紀はなりたかった。
存在そのものが光り輝いていた、元国民的女優の皆間真奈美のように。
――これが、多紀が役者を続ける理由だ。
だけど、そのことを忘れて、いつしか名声だけを追い求めるようになっていた。好きだった演技も、有名になるための手段と化していたのだ。
「演技が巧いだけの役者になりかけていたって、今気が付いて良かった。私が目指すのは、人の心を動かして、その人の世界を少しだけでも変えて上げられるような、そんな女優なの。……これが、あの時言えなかった答えよ、世宇」
ゆっくりと顔を上げる多紀。顔を上げた多紀を、咎める者は誰もいなかった。世宇も、静かに耳を傾けている。多紀は想いを噛み締めるように、一度だけ胸に手を当てた。大丈夫、多紀の内に宿る火は消えていない。むしろ、今言葉にしたことで、更に火が燃え盛っている。
「――だから、ね。私、何でもする!」
役者を目指すようになった初心。今度は消さない、決して。
「主役も脇役も、裏方も関係ない! 演技に関われるなら、何だってする! それが今の私がしたいことよ!」
高らかに、堂々と宣言する多紀は、冷静沈着な北見多紀が持つイメージとは全く掛け離れていた。しかし、この場にいる誰もが、その姿が一皮むけた後の多紀だということを、言葉なくとも察していた。
「……ふふっ」
真っ先に静寂を裂いたのは、世宇だった。いつも物静かな世宇には珍しく、声を上げて、肩を震わせて笑っている。眼鏡の奥の目じりに、涙まで浮かべるほどだ。「やっぱ面白いわ、多紀は」と目じりに浮かんだ涙を、人差し指で拭う。
「じゃあ、新しく生まれ変わった多紀に相応しい役をあげる」
そう言うと、世宇は手に持っていた脚本を多紀に渡した。
「ありがとう。どんな端役だって、私はこなしてみせるわ」
「違うよ。多紀に任せたいのは、端役よりも――、ううん、どんな主役よりも難しくて大切な役」
脚本を捲ると、すぐにマーカーが引かれている台詞が出て来た。次へ次へと捲る内、また彩られていく。マーカーが引かれているのは、全て叔母の台詞。大事な場面で何度も何度も登場するため、彩られている数はあまりにも多い。それが多紀に与えれた配役だと理解するまで、時間は必要なかった。
今回の多紀が演じる役は、主人公ナノに多種多様に変化を与える叔母。
今まで演じて来た役とは、違う。
主役として舞台を引っ張って来たけれど、今回は脇役として舞台を支えなければならない。
この叔母がいなければ、ナノは間違った道に進んでいた。あまりにも重要な役だ。
まさか、世宇がそんなに大切な役を多紀に割り振ってくれるとは思いもしなかった。
「文句があるなら、別の役にするけど?」
世宇の言葉は、更に多紀の心を焚きつけていく。その全てを見透かしたような不敵な顔、絶対に覆してやる。
多紀は全身を武者震いさせてから、音を立てて脚本を閉じると、
「――最高ね。やり甲斐があるわ」
迷いのない瞳で、堂々と口にした。
そして、多紀は稽古場に立つ。すると、稽古場の上には、多紀と同じ背格好――、けれど明らかに多紀とは異なる女性が姿を見せた。
多紀の姿は、演技をする度に与えられた役へと何度も何度も転じていく。
まさしく女優と呼ぶに相応しい姿だった。
<――終わり>