摂理のバイブルスタディ- 「バプテスマのヨハネとイエス様の関係使命」

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バプテスマのヨハネとイエス様の関係使命の講義は、摂理バイブルスタディの後半に出てきます。
バプテスマのヨハネについては、いろんな解釈がありますが
私が注視したい一つの点は
「なぜバプテスマのヨハネは、イエス様と行動を共にしなかったのか」
という点です。

<ヨハネによる福音書3章22-23節>
こののち、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、
彼らと一緒にそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。
ヨハネもサリムに近いアイノンで、バプテスマを授けていた。
そこには水がたくさんあったからである。
人々がぞくぞくとやってきてバプテスマを受けていた。
<ヨハネによる福音書3章26-30節>
そこで彼らはヨハネのところにきて言った、
「先生、ごらん下さい。ヨルダンの向こうであなたと一緒にいたことがあり、
そして、あなたがあかしをしておられたあのかたが、
バプテスマを授けており、皆の者が、そのかたのところへ出かけています」。
ヨハネは答えて言った、
「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない。
『わたしはキリストではなく、そのかたよりも先につかわされた者である』
と言ったことをあかししてくれるのは、あなたがた自身である。
花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、
その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。
彼は必ず栄え、わたしは衰える。

これらの聖句を見ると、バプテスマのヨハネがイエス様と出会っているにも関わらず
共に行動をしていないことが分かります。
「イエス様と共にしていない」という事実が非常に気になるのです。
いま、この時代にイエス様がいたらどうなるでしょう?
世界中にあふれるキリスト教徒はこぞってイエス様に会いに行くはずです。
良い意味で大混乱が起きることでしょう。
「何度も会いに行けないけれども、出来ることならたくさん近くにいってお会いしたい」
熱心なキリスト教徒であればあるほど、このように思うことでしょう。
イエス様を愛する人ならば。

だけれどもバプテスマのヨハネは接する余地もあったけれども
でも接したのは、バプテスマを授けた時だけ。
これは一体、どういうことでしょうか。
旧約聖書を読んでも、新約聖書を読んでも

「主と共に行った」人がやはり「信仰において成功」しています。

旧約最大の預言者であるモーセは常に主と対話しています。

出エジプト記3章4節
主は彼がきて見定めようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、
「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼は「ここにいます」と言った。
また新約の福音書を読むと、イエス様の弟子達でイエス様が生きている時に共に行動しなかった人はいません。
使命で離れることがあったとしても一時的なもので、ずっと離れていた人という人はいません。

バプテスマのヨハネはイエス様が生きていたにも関わらず、共にしなかったのです。
摂理の鄭明析牧師の明け方の御言葉ではこういう御言葉が出ています。

一人では答えが出てこない。主と共にしなければならない。

遣わした人と一つでも共にしなければ、自分の考えどおりにするようになる。

主と共にすることが知恵だ。
主がこの地上に再びいらっしゃるその時、私達は共にする人達になるでしょうか。
離れてそれぞれ生きる人たちになるでしょうか。
その選択は自分自身に委ねられています。

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