八福の教え、山上の垂訓とはーマタイによる福音書5章9節~12節

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マタイによる福音書5章9節~12節はイエス様が山に登って、弟子たちと従う人たちに説教なさった祝福の御言葉で、八福章(八福の教え)、山上の垂訓と言われる箇所です。

<祝福>とは、「自分が願うものをもらうこと」です。<祝福>には「肉的な祝福」と「霊的な祝福」が含まれています。<祝福を受ける絶対法則>は、「祝福を受ける条件を行なうこと」です。<あるもの>を得るためには「それに該当すること」をしなければならないように、<祝福>を受けるためには「自分が受けたい祝福に該当する条件」を立てなければなりません。

 

マタイによる福音書5章を読むと、神様はイエス様を通して<八つの祝福を受ける方法>について教えてくださいました。

 

聖書
イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
新約聖書 マタイによる福音書5章1-2節

一つ、<心の貧しい人>は「天国に行く祝福」を受けると言いました。

イエス様
こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
マタイによる福音書5章3節

心が貧しいということを解くと、肉的に貧しいのではなく、霊的に貧しいという意味だ。つまり<自分の足りなさ、信仰の足りなさを感じて悟って満たす人>を言う。その人は「祝福」を受けるが、「天国」がその人のものになるということです。

<ユダヤの宗教人たち>は「私は信仰的に足りないところがない。よくやっている。霊的に、信仰的に富んでいる」と言って満足して生きました。イエス様を見ても、イエス様のところに来ることもせず、自分よりまさっている人がいないと思って生きていた。
反面、<イエス様に従う人たち>はいつも神様について願い求め、「心の貧しい人」になって主に従い、学びました。

 

二つ、<悲しむ者>は「慰められる祝福」を受けると言いました。

イエス様
悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
マタイによる福音書5章4節

無念で悔しいことがあっても、落胆せず、気をもんで主にすがり、話し、願い求める人は祝福を受けるが、「神様も聖霊様も主も肉的にも霊的にも慰めてくださり、問題を解決してくださる祝福」を受けるようになります。

 

三つ、<柔和な人>は「地を受け継ぐ祝福」を受けると言いました。

イエス様
柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
マタイによる福音書5章5節

柔和ということは「謙遜だ」、「善良だ」、「やさしい」、「気難しくない」、「穏やかだ」、「やわらかい」、「邪悪ではない」、「高慢ではない」、「強くむっつりしていない」ということだ。また「性格が肥沃な畑のようで、シルクの服のようで、よく磨かれた水石のようだ」ということです。

<柔和な人>とは「性格も心も考えも行ないもすべて柔和な人」のことを言います。<性格>と<心>は持って生まれることもあるが、自分がつくり、磨くこともしなければなりません。

<同じ胎から生まれた子供>でも、「性格」と「心」がみんな違い、つくり、磨いたとおりにまた変わる。<ヤコブの12人の子供>も性格がみんな違いました。その中でヨセフは信仰の忠誠者としてつくり、磨いたとおりに、もっと違っていました。<神様と聖霊様と御子主>と共に生きるためには、「性格」と「心」と「行ない」を磨かなければなりません。

各時代を見ても、その時代の人たちが御言葉で磨かれたとおりに「時代の次元」が違いました。<心が柔和な人たち>が「この時代の祝福」を受けます。<時代の祝福を受けて生きる人たち>の中でも「心が柔和なとおりに」もっと祝福を受けて生きます。エジプトから出てきた<イスラエル民族>は心が柔和でなくて、「索漠(さくばく)としたシン荒野の地」をもらって生きました。しかしその二世たちは心が柔和で、「乳と蜜が流れるカナンの地」を嗣業として受けました。時代ごとに民族も個人も<心>が磨かれたとおりに「時代の地」を嗣業としてもらいました。

<もらった地>を見るだけでも、その心が分かります。

 

四つ、<義に飢えかわく者>は「飽き足りる祝福」があると言いました。

イエス様
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
マタイによる福音書5章6節

<義に飢えかわく者>とは「義を行なうために頑張って生きる人たち」です。<旧時代人たち>はいつも自ら義なる人たちだと言って満足し、腹いっぱいになって生きていました。
しかし<イエス様に従う人たち>は義に飢えた人たちで、義の御言葉を聞いて行なうことで「その時代の祝福」を受けました。

 

五つ、<憐れむ人>は「憐れんでもらう祝福」を受けると言いました。

イエス様
あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
マタイによる福音書5章7節

<憐れむ人>は「かわいそうに思って愛してあげる人」です。互いにかわいそうに思って助け愛する人は、その人も「憐れんでもらう」ようになります。

<憐れみのない人>は「冷たく話し、行なう人」です。彼らは神様からも聖霊様からも主からも憐れんでもらうことができません。いつの時代でも<主の心情で行なえなかった人たち>は天の前で「憐れんでもらう」ことができませんでした。<悪評者たち>もそうだったし、<兄弟の心と行ないを正しく知らずに接した人たち>もそうでした。

 

六つ、<心が清い人>は「神様を見る祝福」を受けると言いました。

イエス様
心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
マタイによる福音書5章8節

いつの時代でも<主の御言葉どおりに生きることで心が清い人>、<悔い改めて心が清い人>は「主を通して神様を見る祝福」を受けて生きるようになります。

 

<核心>
七つ、<平和にする人>は「神様の子と呼ばれる祝福」があると言いました。

イエス様
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
マタイによる福音書5章9節

新約時代の時「ユダヤの宗教人たち」はイエス様を受け入れることができず、平和を壊したことで「子女級の主管圏」に入れず、「旧約4000年間待っていた夢」を成せなかった。まことに残念な運命になりました。

反面、<平和でイエス様に従った人たち>は祝福を受け、「神様の子女」になって、2000年の歴史を広げていきました。日が昇り沈むまですべて<平和で解決>し、<平和で決定>しなければなりません。<平和で主に従った人たち>はみんな「時代の新婦」になって新約2000年の夢を成し、成約1000年の歴史を広げる機会を得ました。<頭>は「神様と聖霊様」であり、「主」です。

 

八つ、<義のために迫害を受けた人>は「天国を受け継ぐ祝福」を受けると言いました。

イエス様
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
マタイによる福音書5章10-12節

<主のために迫害と様々な苦痛を受けた人>は「神様と聖霊様と御子主がくださる祝福と賞」が大きいです。

 

<神様と聖霊様と御子主がくださる八つの祝福を受けた人>は一層次元を上げて生きるべきであり、<そうでない人>は御言葉を聞いて行なうことで祝福を受けて生きていかなければなりません。

各個人と家庭と教会と国みんなが長所と短所があります。各自直すべきところを直し、互いに平和をもって行なわなければなりません。

 

<2020年1月19日主日>
<主題>平和にする人は祝福を受ける人だ
<本文>マタイによる福音書5章9節~12節
より抜粋

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