犠牲とは何か?犠牲を払うから幸せになれない?

2019 12/29
犠牲とは何か?犠牲を払うから幸せになれない?
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犠牲の心は救い主の心

犠牲の精神は、救い主(キリスト)の5つの精神の中の一つです。

一つは愛であり、一つは許しであり
一つは感謝であり、
一つは忍耐であり、一つは犠牲でした。

この世の中の全てにおいて、他人のために
自分を犠牲にし生きるものは多くありません。
自分の有益のために
自分を犠牲にするものは多いです。

イエス様の愛と犠牲は
有益のためにではない、
無条件的愛、無条件的な犠牲でした。

何のためにではなく
愛するがためでした。

犠牲は愛を生み、愛は愛を生み
主との愛を成し、救いに至らせるのです。

 

犠牲についての聖句

ヨハネによる福音書12章24節
“よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかしもし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。”

テトスへの手紙2章14節
“このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。”

犠牲はすなわち許しであり、忍耐であり
感謝であり、愛です。

イエス様の精神です。

ある有益を得る
条件のための犠牲ではなく
愛するがゆえに全てのものを差し出す
無条件の犠牲です。

 

犠牲とは喜びで行うこと

犠牲は自分が望むこと、
その全てを捨てて
愛するもののために
そのどんなことも厭(いと)わずに
喜びで行うことです。

犠牲の精神が必要です。

みんな、愛するもののために
そして神様の歴史のために
犠牲の精神を持ちなさいとイエス様がおっしゃいました。

 

犠牲は苦難全てに該当する言葉ではない

しかし犠牲という言葉がどんな苦難にでもすべて該当するわけではありません。

人類のための、命のための犠牲。

愛も感謝も許しも忍耐も犠牲も
本当に全て実践しなければならないのです。

 

自分を捨てなければならない。
自分がしたいこと、自分に合うこと、
自分が出来ること、
それだけが主の仕事ではありません。

時には自分がしたくないこと、
自分に合わないこと、
自分が出来ないこと、
それが主の道であることもあるのです。

しかし、そのような状況になったら
合わないと言い
神様の道ではないみたいだと言います。

それを通して働きかけるために待っている
神様の心を知らないのです。

少し大変で不自由なら違うと言うだろう。
そのようにしたら駄目だ。
それは神様の心ではありません。

全ての人類のために
犠牲にできる心を持ちなさい。

そうする時
神様の歴史が
この地上に成し遂げられるのです。

犠牲の心を学びなさい。持ちなさい。

自分の望んでいることだけを行っては
自分の救いも
命の救いも成されないのです。

自分の全てを空けてこそ
神様がその心に行くことができるのです。

 

真の犠牲とは‘犠牲にした’と感じないこと

真の犠牲は犠牲にした後
‘犠牲にした’と感じないことが
‘真の犠牲の道’です。

間違った犠牲精神は
自分を疲れさせる沼に引っ張っていくのです。
真の犠牲は
行っていても自分を犠牲にしていることを感じず
むしろ感謝し行う精神です。

悟り行うものには
神様のの祝福が
いつも心に臨み、霊に臨み
生活に臨み
肉体に臨むようになります。

 

犠牲についての箴言

2011年5月16日の御言葉より

愛が無くては犠牲もない。
犠牲にする愛が真の愛だ。
犠牲にするものには天の祝福がいつも絶え間なく臨むようになる。
犠牲の愛が無くては神様の愛を完全に伝えることが出来ない。
犠牲の精神が光を放ってこそ、主の愛の精神の光を放つものになる。
真の犠牲とは、自分を犠牲にしていることを表さず、誇らず、自分自身もまた犠牲にしていることより、愛していることを感じるように行うことだ。
犠牲をするものは傍で(そばで)共にしているキリストの顔を笑顔にさせるものであり、人々のためにキリストが与える光を放ち、神様の栄光と私の栄光を現すものだ。
犠牲なくては愛を生むことができず、命を生むことができない。
神様と共に行い、神様と共に成そう。

 

2018年4月21日 御言葉より

<耐えて、犠牲になる人たち>はもがいて働いて、いい家を建てて、一生暮らすのと同じだ。結局自由を得て生きる。

苦労しても命の道に行かなければならない。

互いに大変な時、支えてあげ、やりなさい。一本橋を渡る時、支えてあげたら、みんな渡ることができる。渡ったら、後は道が広いから、問題なく行ける。

<大変な人>がいたら、互いに助けて、やりなさい。彼らも祝福してあげるから、時になればうまくいく。

患難の時や、大変な時に主も助け、三位もお助けになる。

<患難の時>は「自分の考え」で判断する。この時は「正常な人」が助けなければならない。

血気が出る時、憤る時、疎外感を感じる時に判断したら、正しく判断できない。その主管圏の中で考えるから「正常」になれない。
だからこの時は「正常な人」に判断させる方がいい。また、<主>に判断をしてもらい、<三位>に判断をしてもらわなければならない。

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