裁判における公義

2016 8/16
裁判における公義

あの日から
私は自分、そして人間が公義で無いこと
公義になりたくてもなれないことを悟った。

私自身が見てきたものとは
事実が真逆となって
ニュースで連日報道された。

目を疑った。

写真は切り取られ
映像は一部だけしか映らないカット映像。

 

裁判と公義 (7)

ただ神様、聖霊様、御子だけが公義の裁判をなさる
摂理の御言葉より

世の中でいろんな「犯罪」が起こり
ニュースや新聞に掲載される。

その中では
「どうしてあの人が無罪に」
「どうしてあの人が冤罪に」
ということが起こる。

皆さんはDEATH NOTEという漫画を
知ってるだろうか。

デスノートは
ノートに人の名前を書くと
その人が死ぬというノート。

法律では裁けない悪人を
主人公が裁いていくというストーリー
(読まなくても大丈夫ですよ(笑))

これを読んでも人が裁くから
その人が気づかないと裁けないし
その人の気持ちによっても裁きは変わる。

人が気づく範囲はやはり限界がある。

 

裁判と公義 (6)

地球の裏側で誰が何をしてるか

なんてわからない。

人の噂だけで判断するとしたら
それは公平な神様か?公義な神様か?
判断するのは噂ではない。
判断できるのはただ神様だけだ。

 

裁判と公義 (5)

芸能人がよく言う。
「会ったことも無い人から悪く言われる。嫌われる。呼び捨てにされる。何故と思う。」

私もそうだった。
会っても無い人に対して
テレビを通して雑誌を通して
人の噂を通して
判断していたところがあった。

「あの人って何か嫌だよね。」
でもその私を
大きく変える事件が起きた。

ある時の出来事。
私自身が見てきたものとは
事実が真逆となって
ニュースで連日報道された。
目を疑った。
写真は切り取られ
映像は一部だけしか映らないカット映像。

映像編集をしたことを
ある人は分かると思うが
どう編集するかで
良いものが悪くうつり
悪いものがよくうつる。

裁判と公義 (3)

また、バックミュージックに
何を入れるかで全く映像の印象は違う。

バックミュージックも、
報道側の意図があったとしか
思えない怪しげな音楽。

静止画も、どこで静止するかで
どんなに美人でも美男子でも
本人とは全く違う顔になるが
そのように報道されていた。

どうしてそこで止めるのか
という部分で静止画をうつしだしていた。

そこで私は心の目が覚めた。

裁判と公義 (4)

「私自身は公義ではなかった」
「私はメディアを信じすぎていた」

どこかで
「ニュースに流れるものだから」
と信用していた。
信じ切っていた。

でも目の前にある<事実>
と呼ばれるものは
事実ではなかった。

何故言い切れる?

私がその場にいたからだ。

私が撮影した写真とは
比べ物にならないほど
カットされていたからだ。

裁判と公義 (1)

見て聞いたことは
「脳」という器に入れて、
正しく分別し、確認し
判断しなければならない。
判断するまでは、
見て聞いたことを
そのまま受け入れては
絶対にいけない。

見て聞いたことを判断せず
分別しないで受け入れたら
「問題」が起こる。
摂理の鄭明析牧師 明け方の御言葉より

その日から
本当にメディアに対しての
意識が変わった。

もちろんメディアが悪ではない。

ただ全てが全て正しいとも言い難い。
私がよく知っている
メディア関係の方々も
多くいらっしゃるが

その中には
真実を伝えようと本気になって
動いていらっしゃる方も多くいる。

「よく悪く言われてしまうんですけどね」
と苦笑しながら
取材を続けている人を見た。

そういう方もいるから
事実を事実として
伝えようとしている方々も
勿論いることは明記する。

 

裁判と公義 (2)

ただ、あの日のことが無ければ

もしそのことがなければ

私は今でも
「だってニュースで流れてたじゃん」
「新聞に載ってたじゃん。
火のないところに
煙はたたないっていうし。」
と言ってたと思う。

人間は公義にはなれない。
なりたくてもなれない。
全知全能で無いと公義にはなれない。
ただ唯一、神様だけが公義な方。

全ての裁判が
公正公義に行われることを
祈ってやまない。

 

裁判と公義1 (2)

神様は公義だ。
人が隠しても
人が偽っても
それは神様が公義であることには
決して変わりは無いし
何の影響も与えることは無い。

全知全能なる<神様>は
「全人類の霊と肉の裁判長」
でいらっしゃる。

「義人と悪人の裁判」を
「毎日」なさる。

<御言葉>で
その行ないに従って公義になさり
「許しの裁判」をして
再び義なるものになるようになさる。
摂理の鄭明析牧師 明け方の御言葉より

そして裁判をしつつも
神様は悪人の死を喜ばないという。

裁判と公義1 (1)

あなたは彼らに言え、主なる神は言われる、わたしは生きている。
わたしは悪人の死を喜ばない。
むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。
あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。
イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。
旧約聖書 エゼキエル書33章11節

神様は公義の神様であり、そして愛の神様だ・・・。

投稿者プロフィール

RIO
東京郊外出身&育ち。保育事業代表。保育士免許&保育園勤務経験あり。
高校生の終わりごろ、摂理の教会に来てから早20年。

◆年齢:山ちゃんと同じ

教会内のあらゆる役割を経験。祖父、叔父はお坊さん。
 
【好きなもの一覧】
◆食べ物:野菜、味噌汁、卵、ラーメン
◆映画:踊る大捜査線、ジブリ
◆漫画:キャプテン、コナン、るろ剣、ちいさいひと、正直不動産など(あげたらキリなし)
◆キャラ:ピッコロ、剣心、般若、安慈、イガラシ、流川、三井、木暮、赤井秀一
◆ゲーム:ドラクエ、FF
◆芸能人、著名人:YOSHIKI、織田裕二、NON STYLE、サンドウィッチマン、ホリエモン、せやろがいおじさん
◆スポーツ:高校野球、フィギュアスケート

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

関連記事

目次