日本人はあいまいな表現をよくしますよね。
むしろそれをするのが美徳だ、とも言われています。
しかし、僕は少なくとも「美徳」のためにあいまいな表現はしてきませんでした。
僕があいまいな表現をする理由は「自分を守るため」です。
人に意見を求められたとき、ぼかせば自分が浮くことはありません。
それにあいまいに言えば、自分の意見が外れても保険がきくんですよね。
でも、最近はそうじゃいけないなって思うようになってきました。
あいまいな表現は、自分という存在すらあいまいにしてしまうように感じたからです。
結局自分は何がしたいのか?
結局自分の伝えたい想いは何なのか?
そうしたことを、あいまいな表現でいうと欲求や想いまであいまいになってしまうと
感じてくるようになったんですね。
いいかえれば、傷つくことが怖かったんですよ。「違い」を指摘されることがめちゃくちゃ怖かったんですね。
あいまいな表現を日常の会話の中で多様すれば表面ではうまく人と付き合えてるようでも
実際の心と心の疎通は起こりません。
だから最近、伝えたいことをはっきり言う訓練を日常生活の中でしています。
僕はこういう考えです。
僕はこうしたいです。
あなたの意見に納得できません。などなど。
そうしたことを言うのは、勇気がいります。
衝突してしまうこともあることでしょう。
でも、このほうが明らかに「実体的」に生きている気がします。
「なんとなく」生きているのではなく。
実際に心が生きている、と思います。
人の本来のあり方というのは
人の心を推測して終わるのではなく
推測して、実際に自分から疎通してみることで、
相手と真実に疎通し
互いに活かしあいながら
生きていくことではないか
そのように神様とも疎通しながら生ることではないか
だから
僕は本来の自分を取り戻すために
神様が僕に本来の輝いた姿に復活するために
これからもハッキリ考え、ハッキリ言うことに
チャレンジしていきたいと思います。