<もっとよいもの>があっても、「自分の心」に従って<もっと劣っているもの>を選択する。
摂理の御言葉を学ぶようになったときのことです。
わたしに親しく接してくださって、よくお世話をしてくれた人がいました。
はじめて御言葉を聞く前に、その人がピアノを弾きながら、賛美を歌ってくれたのです。
賛美とは、神様をほめたたえて歌うことです。
賛美しようと言うのは、神様のために歌おうという意味で使うことがあります。
賛美が、歌自体をさすこともあります。
賛美を聞いて、わたしは感動しました。
声もピアノも歌詞もすてきでした。
しかし内心、嫌な予感がしていました。
予想通り、その人は言ったのです。
いっしょに歌ってみる?と。
いえ、今日のところは。と、わたしは丁重にお断りしました。
その日はそれでよかったのです。
しかし、日を重ね、何度か繰り返すうち、
その人から、そろそろ歌ってみようよ、と後押しされ、
自分でも歌うようになりました。
はじめて歌ったとき、正直、いやでした。
賛美だけがいやなわけではありません。
歌全般がいやなのです。
自分の声もいやだったし、
音程もうまく合わせられないし、
歌自体、いい思い出がないし、
とにかくいやでした。
なんで御言葉を聞きに来るだけなのに、歌が必要なのだ。
と、ちょっと怒ってもいました。
賛美は技術じゃなくて、真心が大事だよ、とも教えてくれましたが、
わたしは本気で下手だったのと、
そこまで、神様をたたえようという気持ちでもなかったので、
そりゃあ、先輩たちはうまいからいいけどさあ、とむくれていました。
ただ、その人が地道に導いてくれたこと、
そして、楽しそうに賛美する人たちの姿を見て、
すこしずつ賛美を喜んでするようになりました。
賛美はすればするほどすきになって、
そのうち、この曲がすき、あの曲がすき、と言い出して
自転車に乗っているとき、うれしくなったとき、神様を喜ばせたいとき、
いろんな瞬間で賛美をするようになりました。
歌は変わらずへたくそですが、それよりも、
賛美を通して神様に思いを伝えられるからうれしいです。
ただ歌うことと、賛美をすること、何が違うのかといえば、
神様を見ているかいないかだと思いますが、その差が本当に大きいです。
神様と通じる賛美は、本当にたのしいです。
摂理に来るとき、何かしら、いやなことに出会うときもあるかもしれません。
しかし、いやだからといって、やらないことがいい選択とは限らないのだと感じました。
あまりにもいやなことだったけれど、とてもだいすきなことに変わりました。
賛美を通して、もっと様々なものを得るようになりました。
食わず嫌いだった私の、大きな収穫となりました。