春だから、人が去り、また人が来るようになります。
最近、わたしの教会から3人の人が、別の教会に行くようになりました。
つい最近まで、人との別れに本当に興味がありませんでした。
春になるとき、ただ新しい環境への不安だけがありました。
人に対しての関心が少ししかありませんでした。
自分のカラを破って愛することができませんでした。
わたしが愛したからといって、相手は愛してくれるとは限りません。
いつも損得を考え、見返りを求めるから、あまりうまく人を愛せませんでした。
恋愛に限らず、片思いは負けだと思っていたから、人のことを自ら大切に思えませんでした。
それは、話す言葉、行うこと、ひとつひとつにも反映されていました。
しかし、摂理でたくさん愛を学びました。
無条件で人を愛する先生の姿から学びながら、
わたしは本当に関心が不足している。
わたしも愛がある人になりたいと願い求めました。
摂理に来て、たくさん食べ物を分け与えてもらいました。
それからわたしは、人に食べ物をあげられるようになりました。
今までは、全部独り占めしなければ気が済まなかったけれど、一緒に食べたいと思うようになりました。
摂理に来てから、初めての場所に行く機会が増えました。
迎える側は、たいへんなはずだけれど、いつもあたたかく迎えてくれました。
わたしも、訪れる人をやさしく迎えようとするようになりました。
摂理に来て、たくさんの人にたくさん良くしてもらいました。
それが神様の愛だと知りました。
だから、わたしもたくさん良くしてあげたいと思うようになりました。
最近は元気なの?大丈夫?と心から口にするようになり、
心配ってなにかわかるようになりました。
人の誕生日、本当に貴重な日と思って、うれしい心でお祝いできるようになり、
人の幸せを心からよろこぶことを知りました。
わたしが好きで写真を撮るより、その人がよろこべるように写真を撮るようになりました。
自分のためにして終わるより、人のためにするよろこびを知りました。
まだまだ足りないけれど、少しずつ相手を愛してあげられるようになりました。
特に、教会の人たちへの愛が大きくなっていました。
そうしたら、別れの日がさびしくなりました。
別れのとき、これほどにも
もっと一緒に過ごしたかったと惜しんだことは、今までありませんでした。
今までは雰囲気で泣けたけれど、今日は心から泣きました。
涙の温度って、高いこともあるのだなあ、
どうせまた会えるのに、涙が止まらないのはふしぎだなあ、と思いました。
どこにいても元気でありますように。