摂理の御言葉を聞くまで、完全になることはむずかしいだろうと思っていました。
完全無欠って言葉はかっこいいけれど、具体的にどうやって生きたらいいか分かりませんでした。
完全無欠といわれている食材でも、栄養ひとつとっても、ある一つの食材だけとっていたら病気になります。
世の中のどこに完全無欠があるのでしょう。
「完全無欠に生きられたらいい。だけれども人間だからそれは無理。」
それも正しいことの一つですね。
でもやっぱり。
完全無欠って本当に憧れますよね。
オリンピックで10点満点の演技が本当に美しいように、完全無欠ほど美しいものも強いものも無い。
私が御言葉を聞いて知ったのは
「神様が本当の意味での完全無欠だから、神様から学べば完全無欠に生きられる」
ということでした。
完全に探すこと、完全に分かること、完全に行なうことだ。そうしてこそ完全に得る。
2017年3月4日 -摂理 キリスト教福音宣教会 御言葉より
聖書にはこのようにあります。
詩篇18篇30節
この神こそ、その道は完全であり、主の言葉は真実です。主はすべて寄り頼む者の盾です。
詩篇19篇7節
主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。
また、イエス様はこのようにおっしゃいました。
ルカによる福音書11章36節
もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」。
完全無欠な存在でいらっしゃる神様がキリストが、御言葉で全てを教えてくださいます。
その生き方は遠い世の中からかけ離れた生き方でもなく、いまを現実を生きている一人一人にも希望の言葉、実際に成し遂げられる言葉となります。
<歴史の主人>が来てこそ、部分的に分かっていたことを完全に明らかにする。その人が身をもって成し遂げて完全に明らかにする。
-摂理 キリスト教福音宣教会 御言葉より
完全無欠にしようとしなければ、そのように生きられません。
先生(鄭明析牧師)はこのようなことを経験しました。
月明洞自然聖殿の岩の造景も「部分的に分かって積んだ時」は崩れた。
岩の造景が5回も崩れた。積み上げる人は分からなかったけれども、<神様が願われる御座の形象>に完全に積んだら、6回目は崩れなかった。過ぎた日に「部分的に分かって行なったこと」はすべて損をした。
遅れても、苦労しても「完全に」分かってすべきことをしながら進めてこそ、将来、問題が生じず、労苦が無駄にならない。
私は何度も岩が崩れるのをこの目で見ました。
積んだ小石が倒れるのではなく、大きな岩だったので誰がもう一度立てようと思うでしょうか。
再び立てても崩れるだろうと誰しもが思うものではないでしょうか。
しかし、一度完全に立てた後はびくともしません。
あんなに何度も倒れていたのに。
このように人生もこうだということを教えてくれました。
岩が完全に立てたら二度と崩れないように
何度も倒れて絶望したとしても
ビクともしない完全な人生を生きることができるんだということを知りました。
倒れるのは過程であり、不完全はもあくまで過程の一つ。
だから私たち一人一人は決して、完全無欠に対して諦める必要は誰一人として無い。
このように教えてくださったことを本当に感謝します。