ニュースを見逃した私の話
今日、摂理主日礼拝の後にニュースについての話をした。
私はある時、ニュースを見る重要性を悟った時があった。
1999年9月21日。
この日は台湾地震が起きた。
死者が2,415人、負傷者11,306人という大惨事だった。
私はこの台湾地震が起きたということを3日も知らなかったのだ。
台湾には摂理メンバーもいるし、何より隣国だし、知らないでいいはずがない。
私は自分自身に衝撃を受けた。
あまりにも無関心な自分に衝撃を受けた。
知らない人は、知らなくて行なえない。何を知らなくて、何ができなかったか、全く知らないで生きる。
摂理の鄭明析牧師 箴言
信仰者として、何か事件が起こる前からも祈ることは必要だけれども
何か事件が起きてしまった後にもその人の為に祈るべきだ。
行方不明の方がいらっしゃるなら早く見つかるように祈り
命が危ない方がいるならば、その方の為にも祈るべきだ。
ただ眺めてる人が信仰者だと言えるのだろうかと自分を責めた。
息のあるものは祈りなさい。自分の命のために、隣人の命のために。
摂理の鄭明析牧師 明け方の箴言より
また何か感謝すべきことがあるのであれば、感謝の祈りも捧げるべきではないか。
神様が人間一人一人を助けてくださったとしても、それを知らないならば感謝の祈りなんて出来るわけがないではないか。
くれるとき、もらって感謝だ。
食べ物をもてなしてくれた人に、3年後に感謝すると言ったら「私は思い出せない」と言う。
2013年7月13日 摂理の鄭明析牧師 明け方の箴言より
それからニュースは忙しくても、何らかの方法で見るようにした。
ニュースを見る時に気を付けていること
ニュースを見る時に気を付けていることは神様に祈りながら見ているということだ。
インターネットの時代、特に情報が錯綜しやすい時代。
私が聞くべき情報は、何らかの方法で私が必ず聞くことが出来るようにと日々祈っている。
ニュースをいくら気を付けてみていたとしても
見逃す情報もやはりあるし、時には見なくても良かったと思う情報も目にしまう。
そんなとき、後から神様が人を通してフォローしてくれる。
「こんなニュース流れてたよ」
と突然、摂理メンバーが教えてくれたり、仕事の同僚が教えてくれたりもする。
それが私が知らない情報だったりするから、神様に本当に感謝する。
見なくても良かったと思ったことはそれ以上、目に触れないようにもなったりする。
ニュースから悟りを得られるように
そしてニュースを見ながら、自分は分かるだけでなく、悟るべきことを悟れるようにとも思う。
もう二度と、無知な私になることがありませんように。
人は<ただ分かったこと>は「言葉で聞いたこと」と同じで、弱いです。
しかし<悟ったこと>は「目で見たこと」と同じで、感嘆し、驚き、衝撃を受けるようになります。
2015年9月13日 摂理主日礼拝の御言葉より