摂理の鄭明析牧師の10年間 服役の道・・・
キリスト教福音宣教会の鄭明析牧師は、2009年2月ソウル高等裁判所にて女性信者に対する性的暴行を理由に懲役10年の刑を受けた。2018年2月に満期出所した。
私は摂理側の人が言うこと、また反対に「鄭明析牧師は女性に性的暴行をした」という方々、両方のあらゆる資料、実際の本人からの話を聞いてみたが未だにこの事件、また裁判自体が正直、信用に値しない。
冤罪だと私は思っている。
性犯罪事件における女性の心労
実際に性犯罪被害事件にあった方の心労は、同じ女性としても推し量ることができない。そして女性が言うにも言えず、一人で苦しんでる方も多いことを思うと心が非常に痛い。全国の強姦被害者117人を対象にした内閣府の2013年度調査によると、被害者の67・5%が誰にも打ち明けず、警察に相談したのはわずか4%にすぎない。
普通の女性の心理として、「私は性犯罪事件に巻き込まれました」と公言する人は殆どいない。ましてや詳細になど誰が語るだろうか。男性達に以前このことを話したことがあるが、あまり理解はされず。。どうやら公言出来ないという心理が分からないものらしい。かたや、女性達は深く頷いていた。
少し前に#metooのタグで30年前の事件について重い口を開き始めた人たちがいた。
それほどまでに口を開くというのは非常に難しいことだ。
本当に被害にあったのであれば、加害者はのうのうと暮らすことを許されるはずがない。必ずその女性の心身全てが癒されることを切に願う。
複数名による虚偽申告が発覚、強姦罪から一転無罪確定
出エジプト記20章16節
あなたは隣人について、偽証してはならない。
しかし、その一方で性犯罪虚偽の申告で有罪となり、服役している男性(場合によっては女性)がいるのも見逃すことはできない。一人の人生、またその周りにいる人達の人生が狂う。
虚偽の申告をするということは、なにより申告した本人が虚偽だということが分かっている。誰が見ていなくても、神様と本人だけは分かっている。虚偽申告をし、相手を陥れ、刑を確定させ、服役させる。その虚偽申告をした人物は、一体どういう心で生きているのだろうか。
神様はその人をどのように見ているのだろうか。
日本での冤罪、少し前であれば袴田事件があった。そしてごく最近、強姦罪で懲役刑を受け、服役した後に一転無罪となった事件があった。
強姦罪などで懲役12年の判決が確定して服役中、被害証言が嘘だったとして釈放された70歳代男性の再審判決で、大阪地裁は10月16日、無罪を言い渡した。
芦高裁判長は「被害はなかったとする女性の新しい証言は信用できる」と述べた。無罪を求めていた大阪地検は控訴しないことを決め、即日、上訴権を放棄。男性の無罪が確定した。
引用:読売オンライン
この事件の経緯はこうだ。
男性は2004年と2008年、当時10代の女性に自宅で性的暴行を加えたとする強制わいせつ1件と強姦2件の罪により、2008年に逮捕。
警察の取り調べに否認を続けた。男性刑事の言葉は「やったやろ」「覚えてないなら教えたるわ」と次第に荒っぽくなったという。
検察の取り調べでは、被害証言の矛盾を訴えた。しかし、女性検事は「絶対許さない」と一切取り合ってくれなかったという。
女性検事は何か違う事件に対してのわだかまりがあったのだろうか。何故、検事ともあろう優秀な方が、虚偽の証言にまんまと騙されてしまったのだろうか。
「醜悪極まりなく、齢(よわい)六十を超えた者の振る舞いとも思えぬ所業(大阪地裁)」とされ懲役12年、最高裁で懲役11年となり刑が確定し、男性は服役の身となった。
服役中の2014年、この女性や目撃者とされた女性の兄が証言をうそと認め、再審請求。
その後、大阪地検は当時の診療記録に「性的被害の痕跡はない」と書かれていたのを確認し、11月に男性を釈放。
今年8月に検察側は「虚偽を見抜けず服役を余儀なくさせた」と謝罪し、自ら無罪判決を求めた。
男性の勾留と服役は昨年11月の釈放まで約6年に及びんだ。芦高裁判長は判決言い渡し後、「身に覚えのない罪で長期間自由を奪い、計り知れない苦痛を与え、誠に残念。一人の刑事裁判官として被告の言葉に真摯しんしに耳を傾け、審理を尽くしていきたい」と述べた。
男性は今回起こす国家賠償請求訴訟で、自宅に第三者がいる状況で被害を受けたとする女性の証言の不自然さや、自身の疾病で性行為は難しいといった説明が捜査段階の取り調べで考慮されなかったと主張している。
さらに公判段階でも、冤罪を裏付ける証拠となった診療記録の取り寄せを弁護人が控訴後に求めたのに、検察は安易に「存在しない」と回答したと指摘。
二審・大阪高裁も、当時の受診状況を確認するために求めた女性と母親への証人尋問を認めず、一審の一方的な判断を漫然と支持したと批判。予断を持たずに捜査と審理を尽くしていれば、冤罪は防げたと訴える。
弁護人の後藤貞人(さだと)弁護士は「性犯罪の被害者の証言を疑えということではない。
真実を見抜く力など誰にもないからこそ、無実の訴えがあれば、できる限り調べるのが捜査機関や裁判所の務めだ」と指摘。「なぜ、それが尽くされなかったのか。訴訟で問題点を探り出し、冤罪防止につなげたい」と話す。
この法治国家の日本で2008年に逮捕、2011年に刑が確定。現代でも冤罪は十分に起こりうることが残念ながら証明されてしまったのである。
この被害者、並びに被害者の兄が、「嘘だった」と言わなければ男性はまだ獄の中にいたままだったのではないか。それを考えると非常に恐ろしい。
被害者も、被害者の兄も、何故そのようなことをしたのか、真相は定かではないが「自分の嘘により人が服役を受けている」ということをどのように思いながら、自分自身は日常を過ごしていたのだろうか。
例えどんなに憎い相手だったとしても、仮に私が自分の嘘で誰かを追いつめて冤罪にするとしたら、とてもじゃないが私は日常を普通に送ることはできない。きっと私は気が狂って、その時点で人生が終わってしまう気がする。それかひたすら、自分は正しいということを延々と周囲に主張し続けるであろう。自分の気の狂いをコントロールするために。
冤罪に追い詰めることは、普通の状態であれば誰もしないこと。しかし、人の道を一歩外せば、誰でもしかねないこと。私も勿論その一人だ。人の道を踏み外すに至るまでの経緯で、誰かが手を差し伸べられなかったのかとも考えることがある。冤罪に追い詰める側は表面上は楽しく生きているかのように見えても、恐怖と苦しみのどん底だ。
かといって本人が自白でもしない限り、冤罪に追い詰めたことは決して許されることではない。
日本で叫ばれる性犯罪の冤罪事件
日本でも性犯罪において、冤罪事件が多くなってきた。というよりは、冤罪事件と発覚することが多くなってきたと言えるのだろうか。
一昔前であれば、女性の証言が世論も裁判所も、一番強く動かしてきたかもしれない。先ほどあげた強姦事件から一転無罪の件を見てもそうだ。そしてその周りに協力者となる虚偽証言者がいれば尚更、訴えられた側としては不利になる。
箴言12章17節
真実を語る人は正しい証言をなし、偽りの証人は偽りを言う。
最近は少しだけ風潮が変わってきた。無実の罪で捕まらないようにするためにはどうしたらいいのかという特集も、よくメディアで組まれている。痴漢で捕まった時のための保険(弁護士費用負担等)もあるくらいだ。
女性車両があって、男性車両は何故無いのか。そうでなければ男性が冤罪に巻き込まれるではないかという話もよくある。
鄭明析牧師の性犯罪事件について
鄭明析牧師は中国で逮捕され、10か月間の厳しい調査を受ける。
2006年4月3日にテコンドー有段者である韓国人女性2名が中国・鞍山市で鄭明析牧師から性的暴行を受けたとして現地の公安当局に申告したのである。だが、中国・鞍山市中心病院、及び韓国の国立科学捜査研究所病院で検査を受けたところ、性的暴行を受けたという形跡は全く見つからないということであった。
しかし、その検査の数日後、それまで見つかっていなかった傷を女性は訴え始めた。韓国警察病院で診察を受けたところ、前々日とは異なり、小さな裂傷があると診断。
2006年4月18日には「酷く暴行を受けて歩行も困難」と記者会見で女性達は述べている。だが、暴行を受けた現場付近の防犯カメラに、笑顔で歩く女性達の姿がうつしだされていた。暴行を受けたという数日後の話である。
結果、中国の法廷では鄭明析牧師の無罪が確認された。
中国で犯罪を犯して自国に戻るということは非常に厳しいことだ。
フジテレビの小倉さんは言った。
「中国で犯罪を犯したというのに、無事に自分の国である韓国に戻ることが出来るのか?」その通りである。
そして韓国に戻った後、どうなったか。中国国内で無罪になったのに、続けてそれを韓国の法廷で裁判が行われるという異例の事態になった。そして残念なことに中国国内での捜査資料は、犯罪立証に不利という理由で韓国検察から韓国の法廷に提出されなかった。通常では考えられない裁判だ。そのまま<物証無き裁判>は続く。
女性達の中には、「性的暴行は無かった」と後から認める人も現れた。しかし裁判は止まることは無かった。
最後は、告訴人である女性達の証言が何よりの決め手とされた。
最終的に、この裁判は鄭明析牧師を異端とするキリスト教の裁判長、裁判官のもとで行われた。宗教裁判だったとも言われている。そして10年の判決を鄭明析牧師が受けることとなった。
この後、韓国内では他にも数々、訴えてくる人達はいた。刑務所で服役中の間も、鄭明析牧師と摂理に対してさまざまな告訴・告発がなされた。しかしながら、2012年10月までに検察当局はいずれの告訴・告発もやはり「嫌疑なし」との結論を下した。
たった一つ、10年の刑を受けたのは
「中国で無罪」「物的証拠なし」。
しかし「女性の自白のみ」がその理由となった。
鄭明析牧師は次のような詩を残している。
「祈り」
私を敵対視し
私を憎む人たち
彼らが飢えていたら 食べさせ
着るものがなかったら 着せ
寝るところがなかったら
泊まれる場所を与えてください
私を憎む人が
多すぎて
彼らを裁いたら
ソドムの地になってしまいます
敵に様々な
害を受けて
悔しく無念でも
天のため地上のため
私のため敵のため
私が我慢して
天の働きだけに励みます
最後は全て明らかになる
箴言18章17節
先に訴え出る者は正しいように見える、しかしその訴えられた人が来て、それを調べて、事は明らかになる。詩篇37篇6節
あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。エペソ人への手紙5章13節
しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。
神様の前では既に最初から全てが明らかだ。全ての事件は、時が来れば世の中でも全て完全に明らかになると信じているし、そう祈っている。
ただ一体、その時がいつなのかは誰にも分からない。
聖書に載っている人物達も、後で犯罪者で無いことが明らかになった人達も多くいる。
代表的なのは、イエス・キリスト。
マタイによる福音書26章59節
さて、祭司長たちと全議会とは、イエスを死刑にするため、イエスに不利な偽証を求めようとしていた。
そしてその弟子達。旧約の人物達もだ。
私は続けて祈る。全てが正しく明らかになることを。その人が生きているうちに。
関連リンク:
摂理の真実