先輩になるということから逃げようとしていた話

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今日は、研究室で飲み会がありました。

行きたくないなあという否定的な心で参加しましたが、めちゃくちゃ盛り上がってしまいました。

 

なんでそんなに喜んだのかというと、

今まで先輩だと思ってしゃべっていた人が、同い年だと気づいて、

二人とも完全にしらふでしたが、超盛り上がりました。(主にわたしが)

 

同じゼミにいて、半年くらい経ちましたが、なぜ気づかなかったのか。

と、かなり周りにつっこまれました。

いやほんと、わたしが一番ふしぎにおもっているところです。

 

ひとまず、年が上がるにつれて、だんだん同い年の同級生も少なくなり、

後輩か先輩か、という環境で過ごしていたので、同い年の存在がとてもうれしかったです。

 

わたしは今、23歳です。考えてみれば、同い年は23歳の人しかいないけれど、

人生100歳だと考えるなら、先輩は77歳分くらいはいるし、後輩は22歳分くらいはいるわけです。

その中で同い年と過ごせるってすごくないですか。

 

わたしの教会には、1人、2人くらいしか同い年はいません。

ていうか誰が同い年なのかちょっとわかっていないのですが。

とりあえずほとんどみんな後輩か、みんな先輩です。

 

でも教会にいると、先輩後輩関係なく、意見を言ったり助け合ったりもするので、

年もあまり考えなくはなります。

わたしの頭の中では、みんなともだちのような感覚です。

相手もフラットに接してくれるので、かなり楽です。

 

フラットに接するのがわたしもすきなので、

ごくたまに、先輩としてふさわしくなかったかなあ、後輩として失礼だったかなあと反省します。

 

わたしはそもそも、後輩が苦手でした。

先輩として、どう接していいかわからないからです。

部活でもバイトでも、いつも一番下で、後輩ができることなく過ごしてきました。

区分的にいない環境だったり、途中でやめたりしたからです。

 

しかし、教会は途中で簡単にやめるものでもないし、摂理にいる年数が長くなれば、いずれは教える立場となります。

考えてみると、リーダーも指導者も、今までのわたしの人生には無縁の言葉でした。

 

だから今後、そういう立場を迎えるのではないか・・と考えると、

大学院に進学を決めたけれど、わたしはとっとと卒業して、

社会人としてひとりで自由に飛び回った方がよかったかもしれない、と考えることも、過去、多かったです。

教会には若い学生たちもいるわけだから、教えるのは上の年齢の学生であるわたしという流れになるからです。

 

それほど、教える立場、先輩になるということがこわかったのです。

中学、高校、大学と卒業して、今さら感はんぱないですが。

 

今、いろいろと人を教えるような立場に立ちながら、

神様と共にやれば意外といけるもんだ、と感じるようになりました。

わからないことがあれば神様に聞けばいいし、先輩にも後輩にも聞けばいいのです。

 

なにより、先生が一番のリーダーだから、先生に学べばいいのです。

摂理にいて本当によかったとおもうことは、自己流でやらなくてすむところです。

先生がいるから、理想をイメージしながら、合わせて行うことができます。

ほんとたすかる。

 

そして、先輩だからといって、全部わかっている必要はないのです。

もちろん、わかっていなければいけないことは多いですが。

 

今までそればかりを考えて、

全部わかっていなければだめだとおもい、わかっていないことは知ったかぶりをしようとしていました。

というか、人前でよく知ったかぶっていました。

でも今は、わたしも学びながらやろう、と考えるようになりました。

 

できる限りの努力はするけれども、

後輩の方がわかっていることもあるから、それは後輩から学ぼうとおもいました。

 

わたしは知らず知らずのうちに、負けず嫌いでした。

意外とプライドも高かったようです。

自分の専門分野は、だれにも関与されたくないおもいがあるし、

人に意見を言われると、ムッとする瞬間もありました。

 

でも神様から見たら、わたしだけの分野ではないから、だれかに任せたらいいし、

神様がだれかを通していい答えを出してくださるなら、それでいいのです。

 

わたしは本当に、プライドが高かったとおもいました。

負けてやるもんか、自分が成功してやろう、そのような自分中心の考えがありました。

だから苦しくなるし、神様が見えなくなります。

 

自分が先輩になるなら、後輩から見られる立場となるから、

後輩にだめなところは見せられない。そういう自分をよくみせる考えが大きかったのです。

そんなこと考えなくてよかったのです。

 

神様に集中すればよかったのです。

神様が願っていることひとつ叶えて差し上げることだけ考えれば、それ以外が気にならなくなります。

 

まちがえている自分をもっと認めようとおもいました。

そうでなければ、神様とすれちがってしまうから。

神様に近づけるように、この悪いくせもぜんぶ直そうとおもいました。

 

でもこれは、先輩になって、後輩を持ったからわかったのだなあとおもいました。

摂理ではじめて後輩を持ててよかったなあとおもいました。

わたしたちは神様の元でひとつになれるから、どれだけやりやすいでしょうか。

神様に向けて進んでいこうとするから、多少波はあれども、根本的なモチベーションがあります。

 

摂理に来たら、こわいとおもっていたものがなくなっていきます。

摂理にいれば、自分の弱い部分を見つめることになります。

自分の恐れていたものを見つめる機会が必ずきます。

しかし、こわがっていたものも、よく見てみれば理解ができるから、こわくなくなります。

 

わたしが摂理に来て、苦手なものとたくさん向き合うようになりました。

それは、摂理に来れなかったなら、逃げ続けて、結局自分を苦しめることになったものだとおもいます。

神様の元で、神様の懐の中でわたしを育ててくださることに感謝だとおもいました。

 

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