今さらながら、「ズートピア」を観ました。
「誰でも何にでもなれる」ズートピアという街で繰り広げられるお話です。
映画「ズートピア」は、動物の次元が上がり、
本来敵対する関係である肉食動物と草食動物が、互いに共存するようになった世界です。
主人公、ウサギのジュディは、「世界をより良くしたい」と願い、夢である警察官となり、ズートピアで奮闘します。
なんだかこの聖句を思い出しますね。
イザヤ書11章6~9節
おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、
子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、
ししは牛のようにわらを食い、乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。
彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。
水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。
以下、ネタバレになるかもしれません。
この映画は、「差別と偏見」が大きなテーマとなっています。
主人公は、自分の認識としては、偏見がなく、正しい行いをしていると思っていました。
しかし、自分は最初から偏見を持っていたし、今も偏見を持った行いをしていたことに、物語の途中で気づきます。
故意の偏見じゃない、無意識の偏見のことも描いていたわけですが、
わたしもこの主人公のように、そうなのだと感じました。
わたしは摂理の御言葉を聞きながら、あることを指摘するような御言葉に出会ったとき、
自分の生のどの部分にあてはまるかわからないことも多いです。
御言葉でよくないと言われていることは、しない方がいいし、やらないようにしようと思うけれど、
それを、いつの間にか行なってしまっている自分に気づけないのです。
自分が認識している間違いと、無意識にしている間違いがあります。
わたしは無意識にしていた間違いほど、受け入れるのが苦しいと感じます。
それも、人に指摘されるときほど、ショックを受けます。
わたしはそういうことがあったとき、すぐには相手に謝れません。
最初は、「そう?そんなことないとおもうけど」と心の中でつっぱねます。
もしくは、「これはこういう事情や背景や考えがあったしあの人がこのように行動して発言していたから」
と、別の何かのせいにします。あとから考えると正直じゃないなとおもいますが、そのときはそうしたくてたまらないのです。
まさか、わたしが間違えたなんて!と受け入れられません。
こういう頑固な考えも、最近になって存在を認識するようになりました。
わたしは自分のことを、完全に柔軟で素直な人物だとおもっていたのです。
もちろんそういう部分もあるとおもいますが、純粋にそういう考えではいられない場合が多くあることに気づきました。
映画の話に戻ると、主人公は、自分が間違っていたことに気づいてから、偏見を持って接していた相手に謝るのです。
もう一度、その相手と協力して行う必要がありました。そうするには相手の心を解かなくてはいけない。
まずは自分の過ちをうやむやにせず、ただ正直に謝ったのです。
このシーン、神様に悔い改めることと重ねて見ていました。
主人公が自ら折れ、過ちを認め、相手の心情を解いていく姿を見ながら、
自分が神様に悔い改めるということは、すごく重要なことだなと感じました。
自分と相手との間に、合わない部分があるなら、そこを解決しなくては、それ以上近づくことができません。
悔い改めるということ、自分の非に気づき、認める行為ですから、時には自分一人では難しい行為です。
自分に向き合わないといけないし、長く抱きしめていたものを捨てる決意をすることもあります。
本当に愛して抱きしめることもあれば、自分の弱さゆえに抱きしめていたものもあるとおもいます。
それに気づかせ、悟らせてくださるのが聖霊様です。聖霊様ってほんとに重要だなあとおもいました。
というわけで、自分が気付いていない、無意識の過ちについて
考えるきっかけになる、いい映画だなあとおもいました。