鄭明晰牧師かとおもった?ざんねん、鄭明析牧師でした!

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摂理をまとめている人を、わたしたちは先生と呼んでいます。

わたしたちの先生のお名前は、「鄭明析」といいます。
読み方は、チョン ミョンソクと読みます。

日本語では、テイ メイセキと読んで変換して、
「鄭明晰」とよく間違えられているようです。

ん?「鄭明析」と「鄭明晰」?
同じように見えますね?どこが違うのでしょう。

よくみてください。拡大してみましょう。

 

「鄭明析」と「鄭明析」

 

「鄭明析」と「鄭明析」

 

「鄭明析」と「鄭明析」

 

いっしょやないかーい!

すいません、素でコピペまちがえました。
正しくは、こちらです。

 

「鄭明析」と「鄭明晰」

「鄭明」と「鄭明

「析」と「晰」ここ、ちがうんです(ドヤ)

 

ま、たしかに先生は明晰な人なので、まちがえても仕方がないとおもいます。
「析」と「晰」それぞれ、どういう意味なのでしょうか。
デジタル大辞泉で調べてみました。

せき【析】

[音]セキ(漢)
こまかく分かつ。こみ入ったものを解きほぐす。「析出解析透析分析

せき【晰】

[音]セキ(漢) [訓]あきらか
はっきりと見分けのつくさま。あきらか。「明晰

似たような意味ではありますね。
「析」の方が、細かく裂いていくイメージでしょうか。
先生は、ご自身の名前について、このようにおっしゃっていました。

「裂く」という意味の「析」という字を神様にもらって、
善悪を裂き、御言葉も裂きながら数百とおりに使いこなし、
名前の値打ちを果たしています。
2012年12月12日 水曜日の御言葉

善いことと悪いことの区別がよくわからないわたしたちに、
先生は、善悪をはっきりと御言葉で裂いてくださいます。

聖書でこのように書かれている。
だからこうだ、とすべて神様の御言葉を根拠に話してくださいます。
先生の話は、一点の曇りもなく、はっきりとしています。

この場合は、自分的にはもしかしたらこういう感じで思ったこともあったけれど、
でもひょっとしたらそういうこともあるかもみたいな話もあるかもしれないよね。

みたいな文章、わたしたち日本人は特によく使っているのではないでしょうか。

自分の考えに自信がなく、何を根拠にしたらいいのかわからないとき、そのような表現になるとおもいます。
知識や計算や学問、答えがあるものは調べれば学べるけれど、
愛や平和や、人生を生きる中でぶつかる大きな問題について、
わたしたちはどのように考えていいのかわからなくなります。

特に、愛や平和や倫理的な考えの土台となり、学ぶことができるのが宗教ですが、
わたしたち日本人は宗教を知らない人たちが多いから、特にわからなくなります。

そのとき、わたしたちは自分なりに考えるようになります。
10人いれば10個の答えが返ってくるようになり、それが個性であって、それをよしとします。
「その考え方もありだよね」「人によるよね」という言葉をたくさん聞いてきました。

それは、ある人から見たら、それが自由に見えるし、よい考え方のように見えますが、
誰か別のある人から見ると、間違っているし、ありえないことのように思えます。
自由に考えることはいいことだけれど、
みんな、ラインを越えて自由にすきなことを考えるようになったら、秩序がなくなってしまいます。

先生は、「明析」という名前の通り、善悪をはっきりと裂いて教えてくださり、
神様が願うこと、そうでないことをはっきりと分けて話してくださいます。
だから、先生が話すことは、理にかなう話です。

わたしが、どのように生きれば一番いい人生になるのか、
それは、人間を創造した神様の意向がわかってこそ、わかることでした。
先生に出会い、神様の願いを詳しく教えてもらうことではっきりわかるようになりました。

先生は鄭明析という、その名前の通りに生きる人です。
先生のお名前、覚えられましたでしょうか。

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