出勤する前によく立ち寄るマクドナルドには、黒柳徹子似の店員さんがいます。
前髪といい、化粧の具合といい、しゃべり方といい。
彼女からは徹子感があふれでている。
「アップルパイでお待ちのお客様、こちらです。ごゆっくりお召し上がりください。」
文章に起こしてみると、あまりにも普通。
普通のこと言ってる。
あえて表現するならば、
「アップルパイ↑でオマチのおキャクサマァ、コチラですゥー。
ゴユックリおメシアガリクダサイぃー(早口)」
限界だ。これがテキストの限界・・
黒柳徹子が言ってると思って、ご自身でイメージしていただくしかない。
音声でしか表せない、この徹子感。
なんてもどかしい。
そう。
このように。神様もそう思っているのです。
神様の言葉は、聖書に記されています。
聖書として、紙に。文字で。
しかし、今も生きて働いていらっしゃる神様は、
今も。わたしたちの目の前で。リアルタイムに。
とっても話したいはずなのです。
ちょうどいま、あなたの目の前に黒柳徹子が現れたとしましょう。
あなたにウインクをして、去って行く徹子。
あなたはおどろき、そのことを誰かに話したいはずです。
「ちょっと聞いてよ。いま徹子がわたしにウインクしたの!これから徹子の部屋に招待されるのかも」
直接だれにも報告できなかったとしましょう。
そしたらどうしますか。ツイッターでつぶやくでしょう。
ラインの仲良しグループに報告するでしょう。
なんとしてでも、この感動を、この思いを、誰かと共有したい。
神様も同じです。
なんとしてでも、自分の思いを伝えたい。
愛する人間にわかってもらいたい。
しかし、直接話すことができない。
だから人を通して話し、人を通して書かせるのです。
伝えるならば、書くよりも話す方がいい。
なぜなら、あの店員の徹子感をテキストではなく、音声で、表情で伝えるべきであったように、
神様の実際の思い、心情、ニュアンス。
それらは話してこそ、もっと伝わるから。
神様はキリストを通して、預言者を通して、あれほど話されました。
文字だけでは、もどかしい心情まで伝わりきらない。
だから人を通し、万物を通し、
いろいろな方法で働きかけ、伝えようとなさる神様です。
わたしは神様の思いをわかってさしあげなくてはいけない。と思いました。
そして、いつか・・徹子の部屋に招待されたなら。
このことも語り伝え、神様をほめたたえようと思います。徹子と共に。