みんなそれぞれ「個性」を持っています。背が高いとか、優しいとか、感性が豊かであるとか。特に自分が持っている個性というのは磨いていけば将来とても大きなことを成し遂げたりできます。研究者とか、スポーツでプロになって偉大な記録を残した選手は自分の個性は何なのかをはっきり自分でわかっていたりします。
言い換えると、「自分の得意・不得意をしっかりわかっている」ということ。
得意なもの、好きなものがわかっていれば、それをよりもっと伸ばそうと努力します。
摂理の御言葉では人を教育するにしても、自分が成長するにしても、「個性」を大事にすることを言われます。
なぜなら、神様は人間を創造する時に「個性」で創造なさったから。神様はみんながそれぞれ個性を活かして人生を生き生きと、輝かしく生きていくことを望んでいます。
『全能なる神様は〈人間〉を「個性」で創造なさいました』(摂理 鄭明析牧師の御言葉)
『同じ母の胎から生まれた兄弟でも、それぞれ〈考え〉も違い、〈生活〉も違います。同じ家庭で一緒に暮らして同じご飯を食べても、それぞれ〈考え〉も違い、〈行ない〉も違い、〈する仕事〉も違います。これは「個性」が違うからであり、「生の道」が違うからです』(摂理 鄭明析牧師の御言葉)
人がいるだけ個性が違う。人がいるだけその人生も異なる。
だから、自分が成長するやり方を人に教えたとしても、それは真に人を輝かせる教育ではないんです。なぜなら、それはあくまで「自分」のやり方だから。個性が違えば、それだけその個性通りに教えないと、その個性は輝かせられないんです。
では、一人ひとりの個性を消さずに、輝かせるためにはどのような教育をすべきか?摂理の御言葉はこのように言っています。
『それぞれの人に「個性」どおりに接するためには、指導者たちは必ず「三位と主の方法」どおりに教えなければなりません。』(摂理 鄭明析牧師の御言葉)
つまり、「三位と主の方法」=「御言葉」通りにその人を教えてこそ、成長してこそ、初めてその人の個性が個性通りに輝きを放ちます。
だって、個性通りに人間を創造したのは神様だから、その個性が最もよく伸びる方法を知っているのは神様ですよね。
神様が、一人ひとりを愛してくださって、この世に人間を、誰一人同じ人がいないように個性通りに創造しました。
人は個性通りに生きた時に最も輝きます。個性は宝石だ、とも摂理の御言葉で表現しています。人生はその個性=宝石をずっと磨き続けることでもあります。ほかの人の持つ宝石をうらやましいと思っていても、相手からはあなたの持つ宝石がピカピカ光ってうらやましいと思ってたりするかもしれませんよ。自分だけが持つ宝石を、神様と一緒に探してみてはどうでしょうか?(*^^*)