一番に愛されたいと思う心、特別に愛されたいと願う心。
その欲求を叶えるためには、私が、天を神様を、特別に愛さなければならない。
そのことについて、祈っていた時、私に一つの思いが浮かんできました。
私は、これまで、「一番」を潜在的に、追い求めてきました。
ですが、私は、それに見合う行ないをしてきたかといえば、してきませんでした。
私は、熱心に行なうけれども、困難や危機に直面した時、それを「仕方ない」と言ってあきらめてしまうことがとても多かった時に気づきました。
それは、私が求めていた「一番」が、勉強、スポーツの成績といった、「目に見えてハッキリわかるもの」だったからです。
私がそれを求め、努力していた時、必ず周りには、私以上にできる人がいました。
それを見て、私は、「ああ、自分にはそこまでできない」とあきらめてしまい、挫折することがとても多かったです。
私は、そうした「目に見えるもの」だけではなく、「目に見えないもの」である愛をも、同じような物差しで測っていたことに気づきました。
だから私は「頑張ったね」とか「ちゃんと見てるよ」といった声というもので
頑張った報いとしてのモノや名誉といった報酬として
自分がどれくらい愛されているのかを自分で測っていたのです。
そこまで祈ってから、もうどうやって祈ればいいかわからず、私は明け方の礼拝の御言葉を聞きました。
すると、今日の御言葉で以下のようにありました。
しかし、極で神様を愛してみたことがない人は主も、神様の愛も、人間の愛と比較して「このようだ、あのようだ」という。実際は地上にある表現可能なものの中から一番似ているものを見つけて説明したのであって全く同じものでないことを知らなければならない。
だから、続けて挑戦して「受けなさい」「感じなさい」というのだ。愛は各個人のものであり、特に霊的な愛は、極度の喜びだから、感じなさいというのだ。
これを聞いて、私は二つ、大きな悟りを得ました。
一つめは私が求めていた、「特別な愛」「一番愛されたいという思い」は、私の霊の、根本的な欲求だったということ。
二つめは神様がその愛を与えてくださらないのではなく、自分がその次元までしか行わないから、感じることができなかったのだということ。
特に二つ目の悟りは、私にとって非常に大きな悟りでした。
「井の中の蛙」ということわざがありますが
私はまさしく、その蛙だったということに気づいたのです。
神様は私に、自分の認識の限界について、改めて今回のスランプを通して悟らせてくださいました。
蛙が井戸を抜け出して、大海を知るためには
井戸の中を這い上がらなければなりません。そのためには、神様の御言葉ももちろん必要ですが
まずは自分で挑戦すること。
それに尽きると思います。
年末からのスランプから、少しずつですが前進していっていると感じます。
光が見えてきました。
では今日はこの辺で。