個人で信仰を守ることについて

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摂理人の多くは、教会に通って御言葉を聞いたり、讃美をしたり、お祈りをしたり、兄弟姉妹たち(血がつながっているのではなく、同じく信仰を守っている仲間のこと)と交流をしたりしています。

ほとんどの摂理人はそんな感じの信仰生活を送っていると思います。

で、摂理人のなかにも、私のように教会から離れて信仰生活をする人もいます。

いわゆる「個人信仰」というやつです。

 

個人で信仰を守っている人の多くは様々な事情で

なかなか教会に通うことが難しい、というパターンが多いです。

私の場合だと、主日礼拝がある日曜日に仕事がはいっていたり、

勤務時間が長く、職場に拘束される時間が長くて、礼拝を教会でささげることが難しいので個人で御言葉を聞いたり、お祈りしたりしています。

 

では、摂理では教会に通って信仰を守ることと、個人で信仰を守ることと、どちらの信仰スタイルが正しいのか?というと、

特にどちらが絶対的に正しい、というのはありません。

 

摂理全体では個人信仰の人と教会に通って信仰を守っている人の割合がどれくらいなのかは

計算したことがないのでわからないですが

感覚的には教会に通いながら信仰生活をしている人が多いのではないか、と思います。

 

では、そうした信仰のスタイルはどうやって決めていくのか、というと、

「完全に個人の自由意志」です。

鄭明析先生も、「教会に通って信仰を守りなさい」と強制しないし

御言葉でも「絶対に個人信仰のほうがいい!」とか、そうした御言葉は一切出てきません。

個人が、お祈りをして神様と向き合い、また御言葉を通して自分自身と向き合ってどうするのかを考え

どのように神様とともに歩んでいくか、を考えて出したうえでのことなので

そうした個人の決断は摂理の誰も止めはしないし、

牧会者や摂理の指導者もそうした権利は持っていません。

みな、各々がだした決断を尊重してくださり、信仰生活が少しでもうまくいくようにサポートしてくださいます。

 

 

ただ、あくまで私個人の感想ですが、個人で信仰を守るというのは、正直かなり大変です。

孤独はしょっちゅう感じるし

疎外感も感じるし

御言葉通りにできなくて腹が立っても、それを共有してくれる仲間も近くにいない

うれしいことがあっても、それを共有してくれる信仰の仲間がそばにいない

神様がそばにいることは頭ではわかっていても、実際に目では見えないからさみしくなる

このように書いている私も、そう感じている人のひとりです。

最近は、寝るときに恐怖感を感じ、眠れなくなる時が多々あります。

「一人だ」

「誰も、そばにいない」

そう思い始めて、言葉にできない恐怖を感じ、眠れないのです。

 

話は元に戻りますが

個人信仰だと、こうしたさみしさや疎外感、孤独にいやおうなしに向き合わなければなりません。

自分自身で信仰の調子も整えていく必要があるので大変です。

 

こんな風に個人信仰を守るのはかなり大変なんですが

何も大変なことばかりでもありません。

孤独に打ち勝つために

神様に切実に求めるようになるし

御言葉を生活の中でどう使おうか、と頭もフル回転するようになるし

祈ったことがかなった!とダイレクトに感じれるようになります。

そして、何よりもそうしたもがきを通して

神様の心情を深く悟れるようになるし

御言葉を聞けることの喜び、

この時代の御言葉を知っているということがどれほど貴重で貴重なのか

この時代に生まれてきたことがどれほど奇跡だったのか

それをもって正しく生きることがどれほど素晴らしいことなのか

それをもって変化できることがどれほど奇跡なのか

そして、その御言葉を知ることもどれほど奇跡だったのか

そうした「御言葉の価値性」「神様の偉大な愛」を身をもって悟れるようになる、それが個人で信仰を守ることの”味”だと思います。

教会で信仰を守っていてももちろん、感じることはできます。

でも、私は、今の生活をしていなければ、ここまで”御言葉の尊さ”を悟ることは、まずなかったと、断言できます。

神様が私をより大きく成長できるよう導いてくださった、と感じるしかありません。

今後も、個人で信仰を守りながら、より「神様と一緒に暮らす味」を感じて生きていきたいと思います。

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