今日の摂理の主日の御言葉は
「許し」
だった。
先月からこの御言葉が出ると言われていたから
「今日の出来事」に沿って出たわけじゃない。
どうでも良いことなら許せるだろう。
でも自分に危害があること、それ以上に自分の大事な人に危害があった場合、一体それをどうやって許すのか。
しかもそれが命に関わることなら。
「大事なら牙をむいてでも助けたい、自分の命はどうなってもいい、だけれどもこの子だけは助けてほしい。
その子の代わりになれるものならいくらでもなる。」
「どうひっくり返っても道理が合わない。」
「どう考えても理屈に合わない。」
「なんでこんな酷いことが起こるのか分からない。」
「でもまあ結局自分の問題なんだよな。」
いろんな感情、意見がうずまく。
それでもなお。起きた事実は変わらない。
その事実は誰がなんと言おうと、悲しくも変わらない。
主はおっしゃった。
許しなさいと・・・。
聖書の中で何度もおっしゃった・・・。
主がおっしゃることは神様が話されること。
神様は・・・いったいどれだけの人を許してきたのだろう。
許せる人を許すのは簡単だ。
でも天地がひっくり返っても許せない人を許すというのは・・・それこそ苦痛が伴う。
簡単に出来るなら誰でも許せる、誰でも聖人と呼ばれるだろう。
でもそれが出来ない。
主よ。
主は十字架につけられても許しを天に願った。
周りで見てる人が泣き叫ぶような状況でも、それでも天に許しを願った。
誰の罪を許されることを願った?
自分を十字架にかけた人の許しを。
全人類の罪の贖いを。
罪を罪だと分からない人達の罪を。
「この人たちは何も知らないのです。主よ、お許しください。」
まるで何も知らない子供がやってしまったことを代わりに切に頭を下げて謝る親のように。
イエス様自身は何も罪が無いのに、罪人だと言われながら十字架にかけられた。
この世の歴史の中で、表に出てくる歴史、事実は氷山の一角で
到底許せるようなことでは無いことがたくさんある。
全知全能の神、主よ。
全知全能。そう、全てを知る神様よ。
許すとき、どれだけ辛い思いを、どれだけ苦しい思いをされたことでしょう。
許しは決して・・・簡単じゃない。
それでも主は「許す」とおっしゃられた。
そして最後の審判は「聖三位だ」ともおっしゃられた。
この歴史の最後の最後に起こることは・・・全ての神様の手にゆだねられている。
人間の責任分担と共に。
平和を命をかけて願った主。そして多くの人々。
決して無駄になることは無い、その願いと行い。
平和は必ず成される。この地上で。
最後に勝利するのは、、、神様の平和の歴史だ。