強姦事件で逮捕服役中の男性釈放

強姦事件で逮捕服役中の男性釈放
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嘘だった被害者と目撃者の証言

女性に乱暴した罪などで懲役12年の刑が確定し服役していた男性が、
再審=裁判のやり直しを求めていたのに対し、大阪地方検察庁は、被害者の女性や目撃者の話がうそだったことが分かったとして、裁判所の判断を待たずに男性の刑の執行を停止し、刑務所から釈放する異例の措置をとりました。

 

大阪地方検察庁によりますと、この男性は、平成16年から20年にかけて、
大阪市内で同じ女性に2度、乱暴したほか、抱きついて体を触ったとして、
平成23年に懲役12年の刑が確定し服役しました。

 

男性は、捜査段階から一貫して無罪を主張し、
服役から3年余りがたったことし9月に、大阪地方裁判所に、再審=裁判のやり直しを求めました。
これについて検察が、改めて捜査した結果、被害者の女性や目撃者の話がうそだったことが分かったとして18日、
「無罪を言い渡すべき明らかな証拠に該当する蓋然性が高い」
などとする意見書を裁判所に提出したうえで、男性を刑務所から釈放しました。

 

裁判所が再審を認める前に、検察が独自の判断で受刑者への刑の執行を停止し、釈放するのは極めて異例です。
大阪地検は「再審の求めに適切に対応したい」としています。
引用:NHKニュース

 

「裁判所が再審を認める前に、検察が独自判断で受刑者の刑執行を停止は異例」
とありますが最高検によると、
足利事件で菅家利和さんが釈放された以外は無いといいます。
逮捕や裁判は人が判断することだから、どこかで間違いは出てきてしまうかもしれません。

 

でも、そもそも論として、
「証言が虚偽だった」
ということであれば、それ以上の何か決定的な証拠を掴まなければ
果たしてどうなるのでしょうか?
性犯罪被害が本当に起こったかどうか?ということは
起こったにせよ、起こらなかったにせよ、その立証が極めて難しくあります。

 

女性の証言が決め手?

日本は法治国家であり、裏付けとしてDNA鑑定も技術が飛躍的にのびました。

 

きちんと裁判は行われるとされていますが
それでも女性に対する性犯罪の立証は
「被害者の証言、目撃者の証言」
によるところが今回のニュースを通しても
「決め手」になっていることは明白です。
それでもボクはやってないという痴漢冤罪事件を扱った映画があります。

 

これを見ても被害者の証言が、非常に重要に裁判で扱われていることが分かります。
極論を言えば、誤解を恐れずに言えば
女性次第で、その人を無罪にも出来るし犯罪人にも出来てしまうわけです。

 

女性の心理として、実際に被害にあっても
「私は被害を受けました」
ということに対して声を上げるというのは、かなり勇気がいることです。
何人かの男性摂理メンバーとこのようなことを話しあったことがありますが
どうやら、男性には分からない心理のようです(^^;)
皆、「なんで?」とポカンとしてましたから(^^;)

 

自分から声をあげるという方に対しての気持ちは
受け止めなければいけないと思います。
性犯罪は決して許されることではありません。
自分より力の弱い女性を傷つけることがどうして許されるでしょう。

 

ですが、もしその人が男性を陥れるために嘘をついていたら?
誰がどうやって、それを裁判で立証するのでしょうか?

 

女性に対する性犯罪は許されることではありませんが
それならば、それと同様に人の運命を大きく変えさせる
虚偽の証言があったとしたら・・・?

 

男性を陥れる方法として、性犯罪の冤罪は昔から使われてきました。
聖書の登場人物は、見方を変えれば
犯罪を犯してないのに刑を受けた「冤罪」にあふれています。

 

摂理に来るまで、聖書の登場人物達は 仙人みたいな印象をもってました。
苦しみも悲しみも無く、皆が尊敬する対象という。
でも違いました。

 

濡れ衣を着せられたり、悪く言われたり、殺されてしまったり、そういう人達が本当に多い。
摂理ではっきりと私は学びました。
だから今回のような、冤罪の可能性がある事件に対して私はとても敏感なのです。

 

聖書に出てくる冤罪

キリスト教という宗教歴史において、性犯罪の冤罪も実はあるのです。
旧約聖書に出てくるヨセフ。
ディズニー物語にもなっていますね。

 

ヨセフは奴隷だった時に、主人ポテパルの奥さんから誘惑受けました。
ポテパルが不在中の出来事でした。
ヨセフは正しい人でしたので逃げました。
奴隷に逃げられたのがメンツにさわったのか
奥さんはヨセフの着物を掴み、引きちぎりました。

 

帰宅したポテパルに
「これが証拠!ヨセフは私に暴行をしようとした!」
という濡れ衣を着せられて約2年、監獄に入りました。

 
ヨセフとポテパルの妻 グイド・レーニ プーシキン美術館 モスクワ
ヨセフとポテパルの妻 グイド・レーニ
プーシキン美術館 モスクワ
http://art.pro.tok2.com/R/Reni/z014.htmより

 

それまで一生懸命に主人や奥さんに仕えていましたが
主人もただ、奥さんの証言だけをうのみにして
ヨセフを信じることは無かったのですよね。
ヨセフはどんな時も神様をまっすぐに愛した人でした。
でもこのような目にあっているのです。

 

冤罪とイエス様

冤罪という観点から言えば、イエス様も外せません。
イエス様も、数々の汚名と共に十字架につけられました。
宗教の教祖様、絶対的にその人に服従のように思われていたのでしょうか。

 

弟子たちも同様です。ほぼ全員が死刑です。
今でこそ尊い対象として聖書の登場人物たちは輝いていますが
当時の社会的には犯罪人でした。

 

摂理で聖書を教えてもらい、これらをはっきり学べました。
「神様の前で義人と言われる人達は素晴らしい人達だから
犯罪者として世の中から扱われていない」
とは聖書を読めば到底、そうとは言い切れないことが分かります。

 

全ては神様がご存知

冤罪が起きると、本人のみでなく周りの家族の人生も大きく変わります。
何が真実か、人間は分からなくとも全ては神様がご存知です。

 

「認識」とは「脳と心で決定した段階」だ。
だからその決定を変えて間違った認識をなくすまでは、
「肉の目」で見ても正しく見えない。
認識が間違っていたら、短いものも長く見え、
長いものも短く見え、曲がっているものもまっすぐに見える。
摂理の鄭明析牧師 明け方の御言葉より

<世の中万事すべてのこと>について、
いつの間にか思い込んでしまうこと、
いつの間にか判断することなく
人の判断が自分の判断にすり替わることなく
誰かが言うことだけを信じて、大雑把に確認するのではなく、
私自身が自分で100%確認する人生を歩みたいです。

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