筑波大は多数の指導者を輩出すると言われています。
確かに摂理でもそうです。
そしてなんと。
また一人、筑波大出身の指導者を見つけました。
お正月に箱根駅伝が毎年行われるが、調べていたら興味深い事実がありました。
箱根駅伝の発案者である金栗四三さんは、東京高等師範学校、現筑波大の出身です。
金栗四三さんはマラソンの父と言われている方です。
金栗四三さんの写真 冒頭画像出典:オリンピアサンワーズ公式ブログ
渋い!!!
この鋭い眼光は歴史を成し遂げた人の目ですね!
そのマラソン人生の原点ともなるのが通学路だったそうです。
幼い頃は往復12キロの通学路を毎日走って小学校まで通ったのです。
この時点で、マラソン苦手の私は驚愕です。。。
その後、東京高等師範学校(現筑波大)に入学。才能を開花させていきます。
日本のオリンピック初参加に向けた国内予選会で2時間32分45秒を記録。
当時の世界記録を27分も縮める大記録でした。
出典:和水町HP
明治45年 ストックホルムで行われたオリンピックに出場します。
出典:金栗四三展 図録
入場行進の姿。プラカードを持ってるのが金栗選手です。
ですが・・・無念の途中棄権。この時は猛暑で、参加選手68人のうち34人が棄権するという事態だったそうです。しかしこの後も、不屈の精神で金栗四三さんは競技生活を全力で走り抜けますが道は平坦なものではありませんでした。
世界記録を樹立し油の乗り切って迎えようとした第6回ベルリン大会は無念にも第一次世界大戦のために中止。第7回でも優勝を期待されながら惜しくも16位に終わり、33歳で迎えた第8回パリ大会では、ランナーとしての円熟期を過ぎ、32.3キロ地点で意識不明となり落伍。
このように、金栗四三さんの3度のオリンピックは決して芳しいものではありませんでしたが、ストックホルム大会からパリ大会まで日本の先頭に立って走り続け、「負けても負けてもくじけない粘り強さ」は金栗四三の偉大さでもあります。
引用:和水町HP
この精神は日本人として誇りに思います。
また、ランナーとしてだけではない教師としての姿、どんどん自分からアイディアを出していく姿を見せていきます。
地理や歴史の教師として教壇に立ち、さらに走りに磨きをかけます。
また、ストックホルム五輪の敗因を分析、考え出した真夏の房総海岸での「耐熱練習」、心肺機能の充実をはかる富士登山競争、高地トレーニング、そして、孤独な長距離の練習をチームでやろうという箱根駅伝の企画、さらには、女子体育の奨励など、現在のマラソン界につながるあらゆる試みが金栗四三の発案でなされました。
引用:和水町HP
マラソン界の父と呼ばれる所以がここにあります。
あの有名な富士登山競争も、そして箱根駅伝も、金栗さんの幾つものアイディアの一つでした。
箱根駅伝のアイディアの元は1917年(大正6)に日本で初めての駅伝となる「東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競走」が、行われたことによるものでした。
その距離、なんと京都から東京上野まで。
「え?長くないですか?!」
そうです。非常に長いです。
516キロを23区間に分けました。
「え?一日で走れなくないですか?」
そうです。走れません。
「三日間、昼夜兼行で走り継ぐ壮大なたすきリレー」
だったのだそうです。
これが箱根駅伝の原型となった大会でした。
「東海道駅伝」の成功に意を強くした金栗らは、大学や師範学校、専門学校に箱根駅伝創設の意義を説いて参加を呼びかけ、早大、慶大、明大、東京高師(現筑波大)の四校が応じたというのが、創設のいきさつである。第1回大会が「四大校駅伝競走」の名称で行われたのは、こうした事情によるものだ。箱根駅伝の創設は、当時のスポーツ界のパイオニアたちの果てしなきエネルギーが実を結んだものでもあった。
当時は、多くの犠牲者を出した第1次世界大戦が終わったばかり。工場地帯が次第に西に延びて、大動脈の東海道も道幅が広がった。スポーツ界にも、こうした時代の空気を反映して次第に「やってやろうじゃないか」という挑戦心と気概が満ち溢れつつあった。
引用:箱根駅伝公式HP
このようにして箱根駅伝は今日に至るまで、その歴史を刻んできたのです。
行なわない人は「新しいもの」を得られない。
歩きなさい。走りなさい。そして励んで作りなさい。
励んで行ないなさい。そうしてこそ、「新しいもの」を得るようになる。
摂理の鄭明析牧師 明け方の御言葉より
誰よりも、金栗さんはマラソンという世界において行ってきた方でした。
だから箱根駅伝も、今のように日本人なら誰でも知っている有名な大会になったのでしょう。
そうでなければ91年も続く理由がありません。
行った上に神様が共にされ、新しいものを得るようになりました。そして金栗さんだけが得たのでなく、日本人全体が一人の実践者によって箱根駅伝という大会を得るようになったのです。その金栗四三さんに晩年、神様からの素敵なプレゼントが待っていました。
しかし、晩年になっても金栗四三の心残りは初めてのオリンピック、ストックホルム大会で途中棄権したことでした。そして昭和42年、75才のときに一通の招待状を受け取ります。スウェーデンオリンピック委員会から、オリンピック記念行事への招待でした。
この2度目のチャレンジで、金栗四三はついにゴール。
「日本の金栗、只今ゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了する」
場内をアナウンスが流れたとき、万感の想いが金栗四三の胸をよぎったことでしょう。
昭和58年、11月13日、92才で永眠
引用:和水町HP
この54年という記録は正式に登録されているそうです。最短記録を出すことも大事ですが、最長記録を出して更にそれを打ち破ることができる人がどこにいるでしょう。54年という歳月は、金栗さんが一日一日走られた結果です。誰がこの記録を破ることができるでしょう。
1000m行ってはじめて成功するとしよう。
「毎日」1mずつ、少しずつ進んで行けば、自分も知らないうちに遠くに行って、
いつの間にか「目的地」の近くに行くようになる。
摂理の鄭明析牧師 明け方の御言葉より
最後の最後まで諦めない不屈の精神をもつ方だからこそ晩年に大きなプレゼントを神様が下さったのでしょうね。そしてそのプレゼントはストックホルム五輪から100年以上たった今でも続いています。
子孫に感謝のプレート贈呈 百年前、マラソン金栗介抱
ストックホルム大会で途中で離脱した金栗さんを介抱したご家族の子孫のお一人が、なんと日本JOC竹田会長より表彰されています。しかも現地で。
神様はその義を忘れていなかったのですね。
曽祖父の願い胸にゴール ストックホルム
金栗四三さんのひ孫に当たる、蔵土義明さん(25)が2012年、ストックホルム大会100年を記念し当時とほぼ同じコースで開催されたマラソン大会を完走しました。「曽祖父が走れなかった残りの部分を走ることができた」と笑顔でゴールを切りました。
金栗さんのひ孫の蔵土さんと、金栗さんを介抱した子孫の方が100年の時を経て握手をかわしています。
恵み深いですね。
金栗さんの名前のついたマラソン大会もあります
出典:なごみ紀行
金栗さんの名前のついた「金栗杯」。箱根駅伝の名選手たちに贈られています。
出典:東洋データ
<風>もじっとしていたら一つの「空気」に過ぎない。
吹いてこそ<風>だ。力強く威力があるように吹いたら<台風>になる。
<人間>もじっとしていたら「息をするだけの人生」に過ぎない。
時を逃さずに走って「すべきこと」をしてこそ、
「生きている人」であり、「威力のある人」であり、「自分の権勢を現す能力者」だ。
摂理の鄭明析牧師 明け方の御言葉より
出典:和水町HP 晩年の金栗さん
走って「すべきこと」を成した金栗さんの人生に学ぶものは本当に多いです。
私も時を逃さずに、人生最後まで走り切りたいです。
参考:
中部学院大学 こんなに長くて遅いマラソンがあった
金栗四三展 図録
玉名市 マラソンの父 金栗四三
箱根駅伝公式webサイト
和水町 マラソンの父 金栗四三
スポーツツーリズム ごてんば