今日、ある摂理の牧会者(牧師)と話す時間があった。
摂理の大学生達と多く接する立場にある人。
摂理の牧会者は、指導者とも呼ばれる。
その人は一人一人の為に深く祈り
実際に行動している姿を見て感銘を受けた。
摂理の牧会者、指導者は、一対一の時もあれば
一度に数千人単位の人と接することもある。
指導者というのは時には誤解をされ、孤独なときもある。
一度、キャプテンとか、部活の部長とか、社長とか
とにかく人をまとめる「指導者」という立場の人はそういうことがあるだろう。
摂理の指導者も例外ではない。
「何故、あの人にはそのようにしてるのに、自分にはこうしてくれないのか」
「何故、そういう風にするんだろう」
と思われてしまうことも全くないとは正直言えない。
でも私は多くの摂理の指導者の人と直接接し、一緒に過ごす中で
鄭明析牧師が教えてくれた御言葉に基づき、自分の人格を少しずつでも直し
一人一人の摂理人を愛そうとした指導者たちを多く見た。
もっと変化しようとしている指導者たちを多く見た。
人知れず、皆の為に祈り続ける指導者を多く見た。
皆の為だけではなく、その家族に至るまでも。
摂理人の家族が亡くなったと聞けば、その病院に行って その霊魂の為に祈ってあげる指導者。
「一人でも御言葉を聞くならば」
と一人の為に御言葉を伝える準備に数時間、数十時間かける指導者。
「一人一人と話したい」
と言いながら、毎日のように一人一人の話に耳を傾け、
直接力になってあげられることは少なくてもお祈りしてあげる指導者。
人々に話せば誤解は解けるけれども、どうしても話すことができない事情があって
まるで心に泥をかぶるような指導者。
近くの教会だけではなく、多くの時間をかけて何度も何度も教会に足を運ぶ指導者。
相談しても、その内容を絶対に口外しない指導者。
自分が嫌われると分かっていても、その人の為にと神様に祈りながら話す指導者。
摂理を出て行ってしまった人が、いつまた摂理に戻ってきたくなって電話をかけてくるか分からないと思って
もう何年も電話番号を変えていない指導者。
「一人でも参加できるように。遠くから来る人もいるから。」
と出来るだけ安価な合宿場所を最後の最後まで粘って探す指導者。
人がいない時間、ひっそりと聖殿に来て神様に一人で祈り続ける指導者。
これらは極最近の摂理の指導者達の実際の様子だ。
何より、神様と御言葉を絶対的に中心にしようともがく。
たまには失敗もする。
言葉を間違えてしまうこともある。
人に理解されず涙したりもする。
それでもその涙を殆ど人前では見せず、ひたすら神様に祈り、御言葉を行う。
誰しもが完全ではないというと言い訳に聞こえるのだろうか。
神様を愛して階段を昇り続け、時には転げ落ち、時には人とぶつかり
途中で休むこともあり、それでもまたなお立ち上がって、満面の笑みを携えて神様の前に行く。
私が見た摂理の指導者はこうだった。
御言葉では指導者に対して、このように出ている
牧会者とは「中心」を守ってあげる人だ。
これはすなわちただ「天中心」、「時代の御言葉中心」を意味する。
自分の悪い性根、行動、罪を
すべてきれいに直して
天の完全な新婦になりなさい。
そのようにして壇上に上がり
神様の心情をうまく伝えてあげなさい。
指導者は仕える者でなければならない。
指導者は犠牲になる術(すべ)を知らなければならない。
指導者は自分をコントロールしなければならず、自分の感情に偏って、人々を管理してはいけない。
聖三位を最優先に愛し、人々が私の前に来るように導かなければならない。
腹を空かせた者、飢えた者がいないのかを見なさい。腹を空かせた者には食べさせ、着させなさい。
相手の立場で話し、行いなさい。相手の状況と立場をいつも考慮しなさい。
毎日、指導者は、祈りと御言葉と賛美が絶えてはならず、聖霊充満でなければならない。
行い、行動に備えるべきものを備えなさい。
いつもついて行く人が見ているから、習慣、癖、言葉遣いなど、皆がまねるようになる。
主権、権威意識を捨てなさい。
実践の見本となる生を生きなさい。