目的地にたどり着ける最善の道があるかどうか確認し
目的地についたら得ようとしていた宝を探す。
宝も自然に見つかるわけではない。
探さないと見つからない。
見つける自分自身が宝のような人生と目と考えと行いであってこそ、初めて宝を見つけられる。
摂理人である私達がどの道を進んでいるのか。
回り道なのか、一直線の早い道なのか。
時間があれば回り道もいいかもしれないが、そうでなければ一直線のほうがいい。
人生100年。時間がありそうでない。
「出発する時に「いい道」があるかどうか、もっと確認して、出発しなさい。
始める時に間違ったら、最後まで苦労だ。」
苦労する道と回り道というのは、ちょっと違う。
一直線の近道でも苦労することは苦労する。
山がそうだ。回り道をしたら楽だが、一直線に駆け上がるほど大変なことはない。
でも一番近い道だ。
そして目的地に行ったら何があるだろうか。
頂上に登ってみて、すぐ降りてくる人。記念撮影をする人。もっと良い所はないかと探す人。
「宝は隠されていた。探した。そうしたら結局見つけた。」
神様が何をしてくれたのか、途中下車して、また途中下車して探す。そうしているうちに時は過ぎてしまい、最終列車は行ってしまう。
いくら待ちに待っていたものが来たとしても、探せなければ無念にも終わってしまう。
神様の摂理歴史も「<自分の心と行ない>」次第だ。
自分の心が神様の心に近いなら、神様を探せるし、そうでなければ探せない。
イエス様と同じ時代に生きていても、イエス様のことを信じた人と、そうでない人がいたように。
「恵みを受けて御子と一体になるには、「場所と環境」は関係ない。
どんな場所、どんな環境、どんな所でも、自分が「御子の御心」を守って行なわなければならない。」
「もっといいもの」は「もっといい考えと行ない」から出てくる。
自分がどのよう考えるかが大事だ。
<金>も、深く見たら「金」に見え、次元低く見たら「銀」に見える。
神様を普通に愛したら普通だし、とーーっても愛したら、完全に違って見える。
「神様を正しく見ると、「一戸建ての家」が「ビル」に変わって見えるように、正しく見える。
正しく見てこそ、正しく見える。」
自分のことでさえ、一生かけても分からない。
<人間の中にある宝>は、ことごとく最後まで深く見るまでは分からない。