趣味は編み物と料理/中学・高校時代はオーケストラ部に所属/大学卒業後も勉強中/最近では仏語・独語などの言語の勉強にも挑戦/大学1年の夏にキリスト教福音宣教会に出会う
神様は無条件良くしてくださる?
学部生時代、私は大学入学前に申請する給付型の奨学金をもらいながら大学に通っていました。この奨学金は結構大きな金額で、毎年の学費の支払いに当てていたのですが、学費の継続には年度ごとに成績による審査があり、その年に取得した単位のうち半分以上の単位でA以上を取得しなければなりませんでした。
私は大学1年の5月頃からキリスト教福音宣教会の御言葉を学び始めました。御言葉は一生懸命に聞いて学んでいたものの、実際の生活は以前と変わらないままでした。御言葉を聞いていれば神様は無条件良くしてくださるだろうと安易に考えていた私は、自分自身が果たすべき責任をちゃんと果たせずにいました。結局、前期の成績は散々な結果になってしまいました。
母「宗教活動をしていてこんな様になるなら止めなさい」
夏休みに実家に帰省すると、私が御言葉を学んでいることを知った母が前期の成績について「宗教活動をしていてこんな様になるなら止めなさい」と言ってきました。
その時私は「ああ、そうか。神様を信じていても学校の成績は良くならないのか。」と考えました。しかし、この考えは本当に間違っています。先生(鄭明析牧師)はいつも「神様の責任分担は90%、人間の責任分担は10%だ」そして、「人間がこの10%を最大限に果たしたときに初めて良くなり栄える」ということを教えてくださっています。この御言葉を学んでいながらも、私ははっきりと理解していなかったのです。
神様をただ信じるのではなく、勉強をすることは私自身が自らの責任分担を果たすように勉強しなければならないのです。この御言葉をはっきりと悟ってからは、もっと熱心に主の御言葉に耳を傾け、そして実践してきました。
勉強を諦める心が生じた
前期の成績が悪かった分、二年次以降も奨学金をもらうには、後期の試験成績でかなり頑張らないといけない状況でした。私は法学部に所属していたのですが、法学部の後期の学期末試験は一年間授業をしてきた科目の成績が筆記試験一発で決まる授業が多く、本当に大変です。
必ず良い成績をとらなければと二カ月前くらいから勉強をし始めました。しかし、いざ勉強を始めてみるとあまりにも範囲が広く、思うように勉強が進まなくてとても焦りましたし、いくら勉強したとしても駄目なのではないかと段々と諦める心が生じてきました。
切実な心で天に祈るしかなかった
ある晩、もし成績が悪くて奨学金が取れなかったら家族に申し訳ないと思い、先に謝っておこうと母に電話を掛けました。私は母に「頑張って勉強しているんだけど、私よりも賢い人もいっぱいいるし、良い成績はとれないかもしれない…」と弱音を吐いていました。何か勇気づける言葉でもかけてくれるかと思いきや、「奨学金とれなかったら、来年度以降大学に通わせてあげられないからね!!」とひどく叱られてしまい、私はその言葉に非常に衝撃を受けて、来年以降大学に通えなかったらどうしよう…と一層不安になってしまいました。
その電話の後、私はとても切実な心で天に祈るしかありませんでした。「奨学金をもらうために試験で必ず良い成績をとらなければならないけれど、出来る自信がありません。しかし、奨学金をもらえなければ私は来年度学校に通わせてもらえないそうです。どうしたらよいでしょうか?!」と泣きながら祈っていました。
すると、「私がいるのに何がそんなに心配なのか?私が共にする」と心にはっきりと神様の声が心に感じられました。それで、「私に神様と主が必ず共にしてくださる」と感じて、それまであった心配や不安がなくなり、力が湧いて、諦めずに試験勉強を頑張ろうと決心することが出来ました。
神様が『自分自身という壁』を乗り越えられるように導いて下さった
結局、後期の成績は奨学金継続に十分な成績をとることが出来ました。
今でも当時のことを思い出すと、神様に感謝するしかありません。
この経緯を通して私が悟ったことは、「神様も主も求める者に、困難や限界の壁を乗り越えられるように強力に共にして力を与えて下さる」ということです。誰しも生きていれば困難なこと、大変なことがあると思います。その問題をどの様にして解決するか、当時私は神様と主を信じて願い求めました。今もこのスタンスは変わりません。
良い成績をとることが出来るように共にしてくださったことだけでなく、この経緯を通して、神様が『自分自身という壁』を乗り越えられるように導いて下さったことが本当に大きな祝福だったと思います。それまで私は何事も全身全霊で取り組む前に、上手くいかないかもしれないと考えて諦めてしまうことが多かったのです。しかし、神様が共にしてくださるならば大丈夫だと確信できたことで、諦める考えを断ち切ってしまうことが出来ました。
これからも、この経緯を忘れず、困難も自分自身という壁も神様と主と共に乗り越えていきたいと思います。