扶助という「法」についての考察

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先日、摂理の礼拝で法についての御言葉を聞きました。「法」についての御言葉でした。

 

聖書を読んでみると、<神様の法>は「数千とおり」です。
それぞれ<出来事>が違うし、<道>が違います。
一つ一つ、いちいち全部覚えられないから、「二つ」だけ覚えればいいです。つまり<しなさいという法=守りなさいという法>と、<するなという法>です。

◆<法>は分かってみると、「御言葉」です。言い換えると、「神様が人間に願われる願い」です。だから<法=御言葉>が本当に大きいです。

この御言葉を聞いてから、乗馬と御言葉について考察していた時、「扶助」について思い至るようになりました。

「扶助」とは、馬を動かすために人間が馬に与える指示全般のことを指します。

 

前へ進め、止まれ、右へ曲がれ、もっと速く走りなさい、などなど、馬が人を乗せている最中に行なう動きには、全て人間が指示を出しているのです。

 

御言葉が神様と人間との間の「法」であり、「神様が人間に願われる願い」であるとすれば、「扶助」は人間と馬との間の「法」であり、「人間が馬へ願う願い」になります。

 

この扶助、実はどの馬も素直に聞いてくれるわけではありません。指示を出しても知らんぷり、なんてこともよくあります。

また、聞いたとしても適当に動くだけで、乗り手の思った通りの動きをしてくれないこともしばしば。

 

上手く馬に扶助を出せる人、そうでない人との差はなんなのか、考えてみると、結局は扶助という人間と馬との決まり事をどれだけお互いがきちんと守れているか、にあると思います。

例えば、扶助を出したのにも関わらず、馬がその決まり事を守らなければ、動きません。この場合、その瞬間にムチを入れたり、再度扶助を出すなどして絶対に扶助を通さなければなりません。

なぜそこまで厳密にしないといけないかというと、扶助を出した主体、つまり人間自身が馬の反抗を見逃したり、知っていながらも見過ごしたりすれば、たちまち馬は指示通りに動いてくれなくなります。「この人は指示を無視しても自分を叱ったりしないな、だったらもっと自分勝手に動いてもだいじょうぶそうだ」と馬が判断するのです。

また、それとは逆に人間が扶助の決めごとを守れないこともあります。それは人間が出しているつもりでなくても無意識に出している扶助の事です。また、馬が反応しているのに、引き続き扶助を出してしまうことなどです。

例えば、駈歩や、速歩中、馬の動きについていけず、馬体を脚で挟み付けるなどがそれです。

この場合、馬は「今は進め?止まれ?曲がれ?一体何の扶助?」と混乱してきます。それで、いざ人間が出したい指示を出す時には頭が混乱してしまって、上手く言うことを聞いてくれなくなってしまいます。

 

このようなことを考えていくと、乗馬においての人馬の関係性を決めるものが「人」でも「馬」でもなく、「扶助=法」ではないかと思うのです

 

話が戻りますが、ではどうすれば馬が人の扶助通りに動いてくれるようになるのか(=うまく乗れるようになるのか)を考えてみました。

 

すると、先に挙げた摂理の御言葉で、以下のような部分が。

◆<神様の法>は結局「二つ」だと見ればいいと言いました。
<しなさいという法>と<するなという法>を良心で分別し、主の御言葉で分別して、守ることを願います。
守れなければ、繰り返し挑戦して、何としても守ることを願います。その山を越えて行って「次元」を上げなければなりません

 

この部分が扶助をより有効に出せるようになるプロセスと似ている、と感じました。

何回でも扶助を出す。失敗したとしても、馬が守ってくれるように繰り返し扶助を出す。時にはムチで叱る。

扶助に応えて動いてくれた馬の動きを邪魔しないように、しがみついて無意識に扶助を出さないように、繰り返し意識する。

これを何回も繰り返すことによって、少しずつ扶助が洗練されていきます。つまりうまくなる=次元が上がるのです。

問題は山を越えるまでその挑戦を続けられるか、というところにあるでしょう。

 

また御言葉と乗馬をつなげられました。引き続き考察して、より深く落とし込めればと思い、日々の練習にはげんでいきたいです。

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