他人の足りない点をあらわにして悪評するのなら、その人のためにどれぐらい祈ってあげたのか、まず自分に問いてみなさい。
摂理の御言葉より
うーん、深い内容です。聖書にも、このような個所があります。
ヨハネによる福音書 8章3-10節
すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、
「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、
「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。 これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。
指摘するのって簡単ですよね。
でも、その人の為に祈るって結構難しかったりします。
特に、自分が苦手と思ってる人の為には。
私だけでしょうか(人´口`)
しかしながら、祈ってあげたことは無駄にはならないんですよね。
何より神様の前で、ちょっと気分よくいられたりします。
その人の為に祈っても無いのに、何か悪く思うだけだと、少し神様の前で気まずくなります。
その人の為に祈ることすら出来ないほど、嫌なことをされたとしても
その人の為に祈るならば、それはもうキリストの領域、神様の領域に踏み込んでいます。
イエス様は十字架につけられても、人々の為に祈りました。
そのイエス様にならい、日本でも十字架につけられた時に人々の為に祈った人達がいます。
26聖人って知っていますか?
隠れキリシタンの罪で京都から長崎まで見せしめの為に歩かされ、最後は十字架につけられた26人の人々。
そこで十字架につけられた聖パウロ三木という修道士はこのように話しました。
「ここにおいでになるすべての人々よ、私の言うことをお聴き下さい。
私はルソンからの者ではなく、れっきとした日本人であってイエズス会のイルマン(修道士)である。
私は何の罪も犯さなかったが、ただ我が主イエス・キリストの教えを説いたから死ぬのである。
私はこの理由で死ぬことを喜び、これを神が私に授け給うた大いなる御恵みだと思う。
今、この時を前にして貴方達を欺こうとは思わないので、人間の救いのためにキリシタンの道以外に他はないと断言し、説明する。」「太閤様(豊臣秀吉)をはじめ処刑に関わったすべての人を許します。
切に願うのは彼とすべての日本人が一日も早くキリシタンになることです」
うーん、ブログを書いていて 私が苦手だなあと思う人の為に祈りきれてないことがなんだか凄く小さいことのように思えてきました。
もっと自分の次元をあげられるように頑張ります(人´口`)