人生を生きて、波瀾万丈の紆余曲折を経ていない人はいません。人々はよく「私ほど苦労した人はいないだろう」と嘆いたりします。お互いに人生の対話をしたことがありますか?お互いの人生について語り、自分の境遇と心情を洗いざらい話したことがありますか?
私はうちの母に人生をどのように生きてきたのか聞いてみました。子供に全てを語ることは出来ないだろうけれど、母は泣き声になって、自分の生きてきて経験してきたことを話してくれました。夫に言えないこと、隣人に言えないこと、子供に言えない話は胸の奥にしまっておいたけれども、それでもきりのない話でした。
母が私にそういう話を始めると、私はその心情の全てを感じることは出来なかったけれども、ただ母の話の相手になって聞いていました。
そして、どうしてその心情を父や子供達にたまには話したりしなかったのかと聞きました。そうしたら、母は、「解決してくれることができないことを知っているのに、話して何の役に立つのか?」と言いました。
母は昔言えなかったことを日照りのもとで畑仕事をしながら私に話しました。「こんな暮らしをして、何のいいことがあるだろう。こういう風にして生きて死ぬまでのことだ」と話しました。
私は、「子供達がいるんじゃないですか?私がいるんじゃないですか?」と言いました。すると母は、「そうだ、おまえたちしかいない。おまえたちに夢を託して生きている」と言いました。
母は、不平を言うときもあったし、絶望するときもあったし、自暴自棄に陥ったりもしました。
兄弟一人一人について話して、「成功することは簡単ではない。私がちゃんとやってあげられなかったから大きな事は望めないし、やっていることがうまくいかないのを見ると、希望も持てない。嫁に来るときには天に届くほどの夢を持ってきたのに、夫がその願いを叶えてくれなかったし、子供がその願いをかなえてくれなかったし、私が自分の願いを叶える事が出来なかったから、せいぜい畑仕事をして死ぬのが私の性(さが)かもしれない。」と言いました。
私は母に言いました。「人は人間の力だけでは生きていけないものだから、神様を信じたら、神さまが願いを叶えてくれる」と言いました。
そうしたら、母は、「そうかもしれない。神様が私の願いをといて下さるのかな?」と言ったので、私は「お母さんの願いは何ですか」と聞いてみたら、「子供が栄え、人並みに暮らすことだ」と言いました。実際、大したことでもない願いでした。
「神様にその悲しい事情を話し、泣きながら祈りなさい」と母に話しました。そうしたら、母は「祈ってもなんになる?ただ独り言だ。話してなんになる?全て過去のことだ。」と言いました。
人々はそれぞれいろいろな事情があります。兄弟同士が話し合って、互いの心の痛みを解いて行かなければなりません。胸にしまっておくと心の痛みになり、病気になります。率直な対話をし、率直に自分の心情を話せばほぐれます。
イエス様は、「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい。そうしたらできる。」とおっしゃいました。「解決できないだろう」と思って話さないと、なおさら解決できません。話をして初めて、心にたまっているわだかまりが解け、その心情を聞いてわかってくれることで問題が解けるのです。
先生も自分の人生の問題を誰にも語れずに成長しました。そうしているうちに人生の問題にぶつかってしまいました。兄弟との葛藤、親との葛藤、教会の教役者や信者達との葛藤を解決できずにもがきました。山に行って何年も祈って暮らしましたが、解くことが出来ませんでした。
涙を流し種をまきました。一日中泣いたり、嘆いたり、自分と家庭、民族、世界のために祈りながら泣きました。食べられず、飢えのために泣いたし、貧しさを考えると泣けてきました。無学なことを嘆いて泣けてきたし、兄弟、家庭、隣人、民族のことを見て、心霊が激しく泣きました。
結局、天の事情、地上の事情を全て解決しようと決心しました。食べられなくても眠れなくても、この体を神さまに捧げようと覚悟しました。それからは心霊に喜びが満ちあふれ、私の肉と魂と霊の希望は天にまで届きました。人間は誰でも、ただでは喜びを味わうことは出来ません。神さまやイエス様、或いは兄弟達を喜ばせ、その人たちの喜びが自分に伝わってくるときの喜びが本当の喜びです。
現在の苦痛は将来受けるべき栄光に比べることができない、ということを知らなければなりません。主のため苦難を受け苦労をした分だけ、数十倍数百倍、この地上を生きるときももらい、死んでからももらえるのです。
ペテロがイエス様に「主のために全て捧げましたが、後にはどのようになるのでしょうか?」と聞きました。イエス様は「地上にいるときに数倍もらい、死んでから神様の国を相続出来ないものはいない。」とおっしゃいました。
皆さんは泣いたことがありますか?どういうことで泣きましたか?涙には嘘が無いんじゃないですか?
聖書を読んでみると、涙に関する聖句が約300ほど出てきます。神様が遣わした人々が民のために泣き、個人、家庭、民族の事情をみて、泣くことがたくさん書かれています。ダビデは涙で詩編を書きました。マリヤとマルタは熱い涙を流し、弟ラザロを「生かして下さい。」とイエス様に言いました。
うちの母は私の前で涙をたくさん流しました。私のために泣き、兄弟のために泣き、夫のために泣き、自分のために泣きました。とくに私を前にして、連れ合いを亡くした鳩のように悲しく泣きました。私のことが心配で泣き、栄えてほしい、と泣き、哀れんで泣いたのです。
私が見ていないとき、母がどれだけ泣いたか想像もつきません。特に私が再度ベトナムに行ったときに、私のために涙を持って祈り、やきもきしていた母の心を思い、私はその心情を悟り、責任が大きい、ということを悟りました。そして間違った道に行くことはできませんでした。
「涙を持って育てた子供は滅びない」という言葉のように、私は結局滅びないで喜びを持って刈り取るようになりました。
涙を流して求めたので、必ず喜びを持って刈り取るでしょう。だから、喜びを持って刈り取るためには、涙をもって種を蒔かなければなりません。
神様の全知全能さと、主イエスキリストの愛と、聖霊の感動働きとが、涙をもって種を蒔く全ての人々に満ちあふれることを祝福します。
・ 涙をもって蒔く者は喜びをもって刈り取るから、落胆するな。
・ 涙を持って種を蒔いて初めて、喜びを持って刈り取ることができる。
・ 涙を持って求めなければ解決できない。
・ 涙の人は滅びない。
・ 涙は愛の種だ。
・ 神様は、人々が涙を流して求めているかどうかを見ていらっしゃる。
・ヒゼキヤ王が死を前にして涙を流し、神様に祈ったので、15年生き延びることを許された。
・エルサレムが崩れることをわかってイエス様は涙を流し、「エルサレムよ。私がお前をどれだけ抱いたのかわかるか」と悲しみ、泣かれた。
・イエス様はナインのやもめの息子の死を見て残念に思い、泣かれた。
・イエス様は十字架の死を前にしてゲツセマネの園で涙を流し、祈られた。
・ハガルが、サラがこき使うことに耐えられず出てきて、自分の息子イシマエルを抱いて、野原で大声で泣きながら神様をさがしたとき、神様の使者が現れて「あなたも祝福を受け、あなたの子孫が栄えるようになるから、泣かないで落胆するな」と言った。結局、ハガルの息子イシマエルはイスラム教の先祖になり、その子孫が神様を信じ、浜辺の砂のように栄えた。
・恋人のために子供のために信仰の子供のために親兄弟のために摂理のために民族と世界のために神様に涙をもって切に祈ったら、これは夢ではないのかと思いつつ、喜びをもって刈り取るしるしが必ず起こる。
・泣きながら種をまいたら喜びをもって刈り取るということをいまだに知らないのか。
・人生は涙なしには喜びの束を刈り取ることはできない。
・神様も主も心情の涙を流し、喜びをもって刈り取る。
・涙をもって種をまかないと、芽が出ない。
・ダビデ王は捕虜として捕まっていった自分の民が戻ってこられるように、涙をもって神様に求め、シオンの栄光が輝くようにした。
・神様はニネベの町を滅ぼすことにしたが、そのことを聞いてニネベの町の人々が涙をもって悔い改めたので、神様がその涙を見て裁かず、許し、祝福を与えた。
・一億を与えても十億を与えても解決できないことでも涙で解決できる。
・自分のために泣き、自分の兄弟と家庭民族のために泣きながら求めなさい。そうしたら喜びをもって刈り取るだろう。
・涙がなくて泣けないのではなく、深い事情を悟れず感じられないから泣けないのだ。
・エリヤ預言者は3年6ヶ月間悲しみの荒布を着て泣きながら種をまいた。結局アシラ像とバアル神に仕える850人の預言者を殺し、アハブ王を屈服させ、神様の御心を広げ、喜びをもって刈り取った。
・涙をもって人生の種をまいてから、うまくいかないのではないかと落胆してはいけない。必ず喜びをもって刈り取るようになる。
・涙を流し、神様に祈って涙を流し、切実に対話をしなさい。夢のように成し遂げられ、喜びをもって刈り取るようになる。
・涙には嘘が無い。
・涙の祈りは神様に届く。
・大切さを知らないと大事に使うことができないものだ。涙も大事なものだ。
・涙と苦労なしに得たものは価値がなく大事に思えないので失ってしまう。
・涙を流し人生を悲しく生きなければならない時がある。
・人々は誰でもただで喜びを享受することはできない。神様やイエス様または兄弟たちを喜ばせ、その人たちの喜びが本人に伝わってくるとき、その喜びが本当の喜びだ。
・泣く人は笑えるようになる。
2003年4月27日 涙は喜びの種 詩編126:1-6 鄭明析牧師の説教より抜粋