目次入信の意味
宗教を信仰し、その信者になること。
引用:デジタル大辞泉
なのだそうです。
摂理ではあまり、入信とか信者という言葉を使わないので
「摂理に入信した!」
という表現は正直、違和感がありますが(笑)
でもまあ、摂理の礼拝に長年出ている以上、私が「摂理に入信した」という事実に変わりないのでしょう。
ところで摂理に入信するにはどうしたらいいのでしょうか。
どの宗教でもこれは同じですけれども、その御言葉、教えがとても大事になってきます。
一例として、仏教日蓮宗のHPに書いてあったことを載せます。
仏教への入信
Q:仏教徒になるにはどうすればいいですか?
A:仏教の教えを信じ、実践するのならば、あなたは仏教徒です。洗礼などの儀式は、日蓮宗ではありません。
引用;日蓮宗HP
仏教じゃなくても、入信して→教えは守らなくてもいいよという宗教は存在しません。
ただし、摂理は必ず守りなさーい!!と強要はされません。
摂理では教えという言葉は使いませんが、御言葉があります。
御言葉をすぐに理解できなかったからとして、即追い出されるというわけでもありません。
入信の儀式的なものも、特別にはありません。
摂理の主日礼拝に出て、五年たってやっと神様を真に信じられるようになったという人もいます。
そういう意味では、摂理は自由度が高い気もします。
誰かが見張っているとかもありませんし。
「この儀式をしないと、摂理の信者とは認めないよ」
という話は一度も聞いたことがありません。
そして入信したかどうか、洗礼の儀式をしたかどうかより
実際に今、どのように生きているのか、そのほうがはるかに大事です。
ヨハネの黙示録3章1節
『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。
わたしはあなたのわざを知っている。
すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。』
なんと強烈な言葉(笑)
この部分は、サルデスという教会に向けて書かれた内容です。生きている→一見信仰をもっているように見える・・・でも中身は?
マタイによる福音書23章25節
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。
杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。
こちらもなかなか強烈な言葉。
当時は地位と名誉と権勢があった律法学者パリサイ人に向けて、イエス様がおっしゃられた言葉です。
律法学者パリサイ人達は、もちろん神様を信じていた人達でした。
しかし、外側だけがきれいで、中身が綺麗ではなかったと。
摂理に入信したかどうか?で安心する私ではなく
あくまで
「神様の御言葉を私が実際に行っているのだろうか」
といつも問いかけていきたいと考えています。
捧げ物より慈悲を願う主の心情を悟って、また、立てた制度より天の心情を傷めないようにすることをもっと根本にして、重要視しなさい。
*捧げ物や制度を守ろうとして天の心情を痛めてはいけないと悟らせてくださった御言葉
1977年7月 忠南クムサンにて 鄭明析牧師