安倍首相は27日午前(日本時間28日早朝)、オバマ米大統領とともに米ハワイ・オアフ島の真珠湾(パールハーバー)を訪問し、献花して旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊した。
首相は、真珠湾攻撃で撃沈された戦艦アリゾナの上に立つ「アリゾナ記念館」を、岸田外相、稲田防衛相とともに訪れた。
現役首相として同記念館を訪問したのは初めて。引用:読売新聞
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— ニューズウィーク日本版 (@Newsweek_JAPAN) 2016年12月28日
“We must never repeat the horrors of war again.” — Shinzo Abe, who offered repentance in his visit to Pearl Harbor https://t.co/l3zkXMB46H
— The New York Times (@nytimes) 2016年12月27日
旧日本軍から突然の攻撃を受けたときの状況を元アメリカ海軍兵士のアルフレッド・ロドリゲスさん(96)は鮮明に覚えていました。
「日曜日の朝、ごはんを食べていたんだ、ハムとか卵とか。そうしたら突然警報が鳴った。パイロットの顔がよく見えたよ。ものすごい音で、そこら中で爆発が起きていた」(真珠湾攻撃の生存者 アルフレッド・ロドリゲスさん)
引用:TBS
真珠湾訪問は、現職の首相としては1951年に吉田茂元首相、1956年に鳩山一郎元首相、1957年に岸信介元首相、に続き4人目となります。
1957年から考えると実に59年ぶり。
アリゾナ記念館は現職の首相としては初めての訪問。
今年はオバマ大統領が広島を訪問しました。
画像出典:نامه نیوز
新約聖書 マタイによる福音書12章25節
イエスは彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない。
地球という<一つの国>で別れ争うことを、イエス様は明確に2000年前に否定されました。
誰が何をしなくても<自滅する>と。
約70年前の戦争の惨禍を、決して忘れてはならない。
深くそう思います。
忘れたら死ぬという御言葉がありますが、まさに<戦争のことを忘れたら死ぬ>と感じるのです。
神様の御言葉は生きて動いています。
止まっている、死んで はく製にされた御言葉ではありません。
摂理の御言葉より
「結局相手を許すことによって自分も生き、彼も生きるようになった」
鄭明析牧師は、ベトナム戦争に行ったときのことを多数、記録として残しています。
そのうちの一つをご紹介します。
ベトナム戦争の時、何百回と作戦をしているうちに私も敵の銃の前に単独でぶつかることがあった。
3、4mの間隔をおいて、私が先に敵を撃てば敵が死に、敵が私を撃てば私の方が先に死ぬというハラハラする瞬間があった。
その時、お互いが殺そうとしたなら、2人とも死んだはずだった。
天から「愛してあげなさい、良くしてあげなさい」という声が聞こえたから生きるようになっただけで、自分の考えだけでは到底生きることができなかった。
だから神様の御言葉は命であり、霊魂を左右するものだ。
しかし、その時天の声の通りにしたいと思ってもできるものではなかった。
なぜならお互いに言葉が通じないために、「私があなたを許してあげる」と言っても聞き取れなかったはずだったし、体を少しでも動かそうものなら引金を引くところだったからである。
それは私の場合も同じだったので、お互いに、乾燥した明太のように硬く立って考えるだけの世界だった。
そしてお互いが自分自身は死なずに相手だけを死なせようとした。
その時、また声が聞こえた、その声は「行って愛してあげて二人とも生きるようにしなさい」と言った。
しかしその声を信じることができなかった。
人間の方法としては大変だけれども天から聞こえてきた声だったし、また動きさえすれば撃たれる恐れがあったので動くこともできなかった。
しかしその時はどうやっても死ぬ状況であった。
それで「神様の御言葉を実践して死のう」と思ってちょっとだけ歩いていくことを決心した。
すると決心してから前に立っている敵が自分の妹に変わって見えた。
そこで「あなたがどうしてここまで捕まってきてこんなに苦労しているのか」と言いながら走っていき、その人に抱きついて暫く泣きながら異言でお祈りまでした。
その時は異言のお祈りを通訳するくらい霊的だったが、その祈りの内容は、
「あなたと私が戦って互いに殺す必要があるのか。あなたが私に何をしたわけでもないし、また私があなたにそうしなければいけない理由もないのに」というものだった。それで結局互いに生きるようになった。
その人もそんな声を聞いのたかも知れないが、私が近づいて行った時にはその人も同じ様な心を持っていた。
神様は私一人だけに悟らせて下さっただけではなく、相手にまで悟らせて下さったのだ。
だから「行きなさい」と言われたときには相手も悟らせて下さったことを知って動かなければならない。
結局相手を許すことによって自分も生き、彼も生きるようになった。
1988年8月31日 鄭明析牧師
実生活で人を許すことはとても大変なこともたくさんある。
でも、平和は許しの積み重ねだと教えてくれる。
特に、イエス様がおっしゃった
「隣人を愛しなさい」
という言葉が本当に深い神様の言葉だと度々思う。
隣人のように近くにいる人と結局平和を成せるかどうかが、平和の鍵だと。
日本も、隣国と関係性が良好であれば、どれほど世界が違って見えるんだろう。
イエス様は新約聖書で「私のところに来なさい。重荷をおろしなさい。休ませてあげよう。」とおっしゃられた。
聖書や御言葉をみると、例えば何かを開発しなさいとか、〇〇大学に行きなさいとか、難しいことは書いていない。
そうではなく、平和でありなさいとおっしゃられる。
旧約聖書 詩篇85篇8節
わたしは主なる神の語られることを聞きましょう。主はその民、その聖徒、ならびにその心を主に向ける者に、平和を語られるからです。
新約聖書 ローマ人への手紙12章18節
あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。
今年8月に、摂理の御言葉では和睦(争いをやめて仲直りすること‐デジタル大辞泉より)に関しての御言葉がたくさん出た。
神様が願っていること、それは神様と共に、人々と共に平和に暮らすこと、和睦して暮らすこと。
忠誠を尽くし、仲睦まじくしなさい。
忠誠と和睦の愛であってこそ、完全だ。
鄭明析牧師の御言葉より
<神様の御言葉どおりにする人>が神様の心を持った人だ。
<ゆるし、平和にする人>が神様の心を持った人だ。
<神様と聖霊様と御子を愛する人>が神様の心を持った人だ。
鄭明析牧師の明け方の御言葉より
私ももっと努力しよう(><)
冒頭画像出典:Reuters