比較する作業で見えてくるものとは-摂理で学んだ裏切らない神様

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物事の選択の際には、比較することが最良の選択を生むことがある。

 

正確に比較するには、それだけの材料が必要。
しっかりと調べた材料が必要。

 

ちょっと調べただけでは、うわべだけ見ただけでは、カナンの地を見てきた人々のようなことを言うようになってしまう。

民数記13章32節
そして彼らはその探った地のことを、イスラエルの人々に悪く言いふらして言った、「わたしたちが行き巡って探った地(カナン)は、そこに住む者を滅ぼす地です。またその所でわたしたちが見た民はみな背の高い人々です。

その報告を聞いたイスラエルの人々は、嘆き悲しんだという。

エジプトで奴隷生活をしていたころのときのほうがマシだと。何故、神はこの地に連れてきて私の妻子達を餌食とされるのかと。(民数記14章参照)

 

神様の御心はどこにあるか分からない。
人類歴史上、神様の御心をハッキリと事前に分かることのほうが少ない。
だからよく調べないと分からない。

 

しっかりと比較して最良の選択をするためには、しっかりと調べること、探すことが本当に必須。

 

民数記14章6-8節
このとき、その地を探った者のうちのヌンの子ヨシュアとエフンネの子カレブは、その衣服を裂き、
イスラエルの人々の全会衆に言った、「わたしたちが行き巡って探った地(カナン)は非常に良い地です。
もし、主が良しとされるならば、わたしたちをその地に導いて行って、それをわたしたちにくださるでしょう。それは乳と蜜の流れている地です。

 

先ほど、悪く言った人たちと同じように偵察しに送られたヨシュアとカレブ。同じものを見てきたとは到底思えないようなセリフ。

 

最良の選択、神様の御心を探すためにはかなりの努力も必要だし、時にはしっかりと比較する作業が絶対に必要。

マタイによる福音書7章7節
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。

人は何かを探そうとしてこそ見えるし見つかるように、 悟ろうとしてこそ悟れる。

人は何かを探そうとしてこそ見えるし見つかるように、
悟ろうとしてこそ悟れる。
鄭明析牧師の明け方の御言葉より

 

ただ、人と人とを比較する必要はない。

コリント人への第二の手紙10章12節
わたしたちは、自己推薦をするような人々と自分を同列においたり比較したりはしない。彼らは仲間同志で互にはかり合ったり、互に比べ合ったりしているが、知恵のないしわざである。

人々も互いに比較して使ったら、個性で使うことができない。 だから、大きな損だ。箸とスプーンも、特徴が違うから、比較できない。 箸では汁物をすくって飲めないから、スプーンとは比較できない。 また、スプーンではおかずを取って食べることができないから、 箸とは比較できない。だから、比較しないで、「個性」で使いなさい。

人々も互いに比較して使ったら、個性で使うことができない。
だから、大きな損だ。箸とスプーンも、特徴が違うから、比較できない。
箸では汁物をすくって飲めないから、スプーンとは比較できない。
また、スプーンではおかずを取って食べることができないから、
箸とは比較できない。だから、比較しないで、「個性」で使いなさい。
鄭明析牧師の明け方の御言葉より

 

数多くの選択肢の中で、一つ一つそれを調べる作業は骨の折れることもあれば、未知なる開拓地を進む開拓者のような心情になることもある。

 

でもそれ以上に、最良の選択、神様の御心を目指すから物事一つ一つを調べることは苦ではない。
調べたことがすぐに何かの役に立つことばかり考えていると、すぐに力を失うし、それ以上調べる気力も無くなるけれども。

 

調べた上で、使われないものって結構たくさんあるんだけれど、きっといつかの機会に使われるだろう。
そう思うし、実際のところは殆どがそうだった。

 

神様の為に動いたことは何一つ無駄にならない。

摂理で学んだ神様の働きはいつもそうだった。
摂理に出会ってからの21年間、結局は全てがそうだった。

 

それを現在も今後も忘れずに生きていきたい。

忘れたら喜びが無くなってしまうから。

記憶してこそうれしい。忘れて喜びが消えたのだ
-摂理 キリスト教福音宣教会 2016年10月9日 主日礼拝の御言葉 主題

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