神様のプレゼントが粗大ごみになる日

今日、かなり長いメールが来た。

 

教会の中での作業に関しての長いメール。

 

最初読んだときにあんまり頭に入らず、なんだかとても大変そうに見えた。

 

こういう時は直接電話するか、直接会ったりしたらより速いこともあるけれども
離れた場所に住んでる方だったのと、作業内容の確認のためには文章での確認が必要だった。
(電話でもやり取りは何度もした)

 

仕事のメールとはやっぱり違う。
教会の中のやり取りは前例が無いことも多いし、様々な人の心を大事にしながらの作業内容。

 

そのあと、10回くらい読んで やっと頭が整理されてきた。

 

何でもパット見の判断だと、そのメール(連絡)をもらう前の心情が反映される。

「おそらく大変なんだろうなあ」
「おそらく時間かかるんだろうなあ」
「ちょっと面倒だなあ」
自分がまさにそうだった。

 

もっと真っ白な心であればまた違ったかもしれないけれども
この件に関して何度もやり取りしているうちに私の頭の中で
「大変そう」
という図式が既にできていた。

 

まさに固定概念の塊とはこういうことで。

 

そんなつもりは全く無くてもいつの間にやらしみついた固定概念が
本来の姿を曇らせる。

 

「このようにこうだ」
とは御言葉で何度もおっしゃるけれども、本当にそうだ。

 

私にしみついた固定概念のせいで、実際にどうなのかを見極める視力を失わせる。
大変じゃないのに、それはエベレストのように見え
出来るのに、いや無理でしょという考えに陥らせる。

 

こうなると神様が下さったプレゼントでさえ、粗大ゴミに見えてしまう。
聖書を見ると、神様が送ってくださった人なのにも関わらず、多くの人々がプレゼントを粗大ごみのように扱ったことが書かれている。

 

マタイによる福音書23章37節
(イエス様が話されている箇所)
ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。

 

固定概念は毎日捨てなければ。

 

改めて心に誓ったのである。

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この記事を書いた人

東京郊外出身、育ち、在住。保育事業代表、保育士資格所持。祖父は寺の住職。
高校生の終わりごろ、キリスト教福音宣教会の教会に来てから早20年超。食べるの大好き、漫画大好き、ディズニー大好き。人生を楽しみながら自由に味わっている。
好きな言葉は「実践してこそ得る」

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