私は本当に人と比較する人でした。
私は生まれてから数十年間(←?)、ずっと人と比較し続けました。
比較したらどうなるかの実験をし続けたとも言えます。
さて実験結果はどうでしょう。
比較し続けた人生の結論
「時と場合によっては良い効果もある」
「ただし常に比較していると良いことは一つもない」
結論はこの二つでした。
最近、みことばで
<比較>はいつでもすることではない。
<神様がくださったもの>を「普通」に思って、<向こう側の他人のもの>を「大きく」思うから、その時、実相を悟るように「比較」して見るようにさせる。
比較したら、<神様がくださったもの>が大きく素晴らしく神秘だということを悟った。このような時だけ「比較」するものだ。<自分のものがもっとよいのに劣っていると考える時>、この時「比較」して「自分のものがもっとよいということ」を悟るようにさせる。
<自分のものがもっとよくない時>「比較」したら、委縮し、むしろ力を失うようになる。
とありました。
まさにそうですそうですと同意するしかありませんでした。
比較したから伸びた能力 その行く末-結局は負のスパイラルから出られない
比較したから伸びた能力も多数ありました。
これは認めます。
比較するからこそ、「やばい、やらなくては!」
私が中学生のとき、高校生のとき、そして摂理に来ても以降、自分が変わったキッカケの多くはこの比較でした。
これは刺激としてならいいですが
そうでなくて自分への劣等感からの比較→そこから変化をとげていくというところになってしまうと問題になり。
劣等感が高ければ高いほど比較し、やらなくてはということで次々に実践する。
その結果、能力がかなり高まる。
でも出発点の心が<人との比較、劣等感>なので、そのようにして伸びた能力も、心が変わらないとだんだん苦しくなるんですね。せっかく能力があったとしても、元の心は苦しいまま。
いくら人から褒められたとしても、自分が自分を認められない悲しい結果を生む。
伸びた能力も、なんで伸びたのか、どんな心で伸ばしたのかによって、結果という名の心の状態が全く変わりました。
<考え>で死に、生きる。
<考えること>次第で、「天国」にもなり、「地獄」にもなる。
摂理の箴言より
能力がのびても、心、考えが変わらなかったら地獄の状態は変わらない。
比較した心でせきたてられるように伸びた能力、人から何か言われたくないから伸ばした能力は伸びたとしても嬉しさは一過性で、再び結局、誰かと比較するようになりました。
能力が伸びた以降、いつしか心を軌道修正しないといけない。いつでも比較していた心を修正しないと長続きもしないし、心も穏やかではありませんでした。
何かを成し遂げるのも大事なのですが、必要以上に比較し過ぎる心を修正する必要があるということを、比較人生で学びました。
比較はどこから出てくるか、分かりますか? あなた自身の価値を悟ることができず、 信じることができないところから出てくるのです。 あなたが持っている個性と能力、あなたの長所を知らないからです。
それをはっきり悟らなければなりません。 自分の個性が何なのか、能力が何なのか、何が得意なのか……。 そして、主との愛に完全であってこそ比較しないのです。
2016.4.23 「比較」についての神様の教育 御言葉より
でも神様を愛するから、誰かを愛するから、そういう心で伸ばした能力は自分自身も凄く嬉しい。
環境も状況も人が変わっても比較し続けた心
私は何度か引っ越して、環境も周りの人も違って。
それでも比較する心が変わらなかったから、
「ああ、これは周りのせいではない。自分の比較する心自体を変えなければ。」
いつしかそう思うようになったのです。
自分以外のせいにしているときは、結局変わらないんですよね。自分が。
環境が悪くても、<よい考え>を持って肯定して生きれば、「心の天国」になる。
摂理の御言葉より
正しい比較
真に比較できるのは神様しかいない。
<相手>は「大きいもの」ばかり持っているが、<自分>は「小さいもの」ばかり持っているとしよう。大きくても長所、短所があるし、小さくても長所、短所がある。
あるものは、小さいものが大きいものよりもっとよい面もある。
2017年3月10日金曜日の明け方の箴言
比較って、正しく比較しないと、そもそも間違えますね。
自分が凄く下に見えたり、逆に相手が凄く高く見えたり低く見えたり。
本当に正しく比較しなければ、自分のことも相手のことも神様のことも見えなくなってしまう。
イザヤ書40章18節
それで、あなたがたは神をだれとくらべ、どんな像と比較しようとするのか。
イザヤ書40章25節
聖者は言われる、「それで、あなたがたは、わたしをだれにくらべ、わたしは、だれにひとしいというのか」。
イザヤ書40章28節
あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。
比較の基準は何なのか。その心はどこから来るのか。
コリント人への第二の手紙10章12節
彼らは仲間同志で互にはかり合ったり、互に比べ合ったりしているが、知恵のないしわざである。
そう、正しくない比較は知恵のないしわざになる。
今現在の私
今でもたまに、この比較し過ぎる心がでてくるときがあります。
そんなとき、祈ると御言葉でたすけてもらったり、神様が助けてくれたりします。
それ以上、必要以上に比較しないように助けてくれます。
人々も互いに比較して使ったら、個性で使うことができない。だから、大きな損だ。箸とスプーンも、特徴が違うから、比較できない。箸では汁物をすくって飲めないから、スプーンとは比較できない。また、スプーンではおかずを取って食べることができないから、箸とは比較できない。だから、比較しないで、「個性」で使いなさい。
2013年12月27日金曜日の明け方の箴言
神様自身もこのように人に対して接していることが分かると本当に安心するのは、私だけではないはず。
いつも常に比較人生は疲れました。
良いことありません。
それに気づかせてくださった神様の愛と忍耐力に^^;心から感謝しています。