障害に対する鄭明析牧師の考え

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障害に対する偏見が無くなったらいいなと思って、障害について書こうと思っているのだが、なかなかまとまらない。

下書き状態の記事が複数ある。

障害って本当に多岐にわたっていて、書こうと思って書いたとしてもすぐに書けるものでもない。本気でやろうとしたら。

 

障害について調べれば調べるほど、
「人間全員、多かれ少なかれ、どれかの障害に当てはまるのでは」と思うことがある。
知らないと偏見をもってしまうこともあるかもしれない。偏見、つまり正しく見れない。

 

私の親族でも障害を抱えている人がいる。幼いころから周りにそういう方々がいたので、私にとって障害は特別なものでもなかった。

鄭明析牧師は障害があってもなくても、何か差別したりしない。むしろ一人一人を生かそうとしてくださる。

鄭明析牧師の障害に対する考えはこう。

私が水泳をどこで学んだか知っていますか?人はショックを受けなければいけません。

 

一度、障害者オリンピックに行きました。みんなが行きましょうとしつこく言うから引っぱられていきました。行ってみると足がない人、手がない人が水泳をあまりにも上手くしていたのです。それを見ながら‘私が障害者だな’とショックを受けました。神様がそれを悟らせるために計画的にそこに連れていったのです。

‘障害者でも水泳が上手いから障害者ではない。できない私が障害者だ’と悟りました。
1998年8月8日(土) 朝の御言葉(実践者だけが勝利できる)

 

障害者の定義というか、考え方が違う。
このような考え方を基本にしなければいけないのではないだろうか。

 

私の周りの発達障害を抱えている子達は天才ばかり。<神の領域>とも思えるような天才達。凄すぎて私には到底、到達できる域にないと思ってしまう。

 

もし、障害に対しての偏見を持っている方がいればお聞きしたい。
「障害者と接したことはありますか?」
「自分自身に障害が無いとハッキリと確信を持って言えますか?その根拠はどこからくるのですか?」

 

障害をもっていて、自分に自信がない方にお聞きしたい。
「障害は誰がどのような基準で決めたのですか?」
「神様から見て、それは真実に障害なのですか?その根拠はどこからくるのですか?」

 

自分の障害を隠す、隠したくなるという方も多くいらっしゃることを知っている。
その気持ちもよく分かるし、自分が控えたいなら無理やりに明かす必要も無いけれども。
ただ。受け入れる私たちでありたい。
障害が特別ではなく。
神様から見たらどうなのかということを、いつも考えるべきではないだろうか。
それは切に願うし、私もずっと心にとめておかなくてはいけないこと。

 


神様にも確認して行ないなさい。
「私はこのようにしますから、このようにしてくださいますか?」と約束して、
確認して行ないなさい。
<自分の考え>と<神様の考え>とは異なる。
鄭明析牧師の明け方の御言葉より

 

本当に神様の考えと人間の考えは異なります。人々は部分的にしか分かっていませんでした。完全なものが来たから、分かった人は既存の考えと生活をすべて廃しました。
2008年5月7日水曜日の御言葉

 

全ての人達が生かされることを主は望んでいらっしゃる。今後、書く記事が そのための一助になれればいいと思う。
御言葉を元にして書いていく。

投稿者プロフィール

RIO
東京都出身。高校生の終わりごろ、摂理教会に来てから早21年。教会内のあらゆる役割を経験。
現在は、つくば市在住。教育関連事業で邁進中。
好きなものは猫。

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