亡くなった人の為の祈りー40年の闘病生活を終えた叔父

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先日、叔父のお葬式があった。

 

叔父はリウマチで、20代のころから車椅子の生活をしていた。
私は歩いている叔父の姿を一度も見たことが無かった。

 

結婚はせず、叔父のことを親族がいろいろサポートしていた。

 

叔父のお葬式のときに、叔父の友人の方が若い頃の叔父の写真をもってきてくれた。
私は初めて見た。
まだ歩けていたころの叔父は、イケメンで芸術家だった。

 

家の関係で、お坊さんを目指していた叔父はお寺でいろいろ苦労したと聞いた。

 

他にもきっとやりたいことがいろいろあっただろう。
車椅子の生活で無ければ、今頃どこか違う国で暮らしていたかもしれない。
とても自由な人だった。
アジアを歴訪している叔父の姿は想像が出来る。

 

叔父は、お坊さんの道は歩めなくなり、その後は闘病生活を長くしていた。
その長さは約40年。

 

晩年は、心臓の手術をしたり、癌を患ったりした。
心臓の手術をした医者は
「これで生きているのが不思議なくらいだ」
といったそうだ。

 

今年の三月にお見舞いに行ったとき、叔父と二人で話した。
叔父はたくさん話し続け、最後に私にポツリと「ありがとう」と言っていた。

 

叔父に御言葉を話し、薬水も渡した。
毎朝、叔父のことを祈りつづけた。

 

最後は言われた余命の期間を通り越し、いつ亡くなってもおかしくない状況が数週間も続いた。

 

言い方を変えると、ここでも
「なぜ生きているのかが分からないくらい」
ということだったそうだ。
お医者さんも実際、そのようなことを言っていたそうだ。

 

お見舞いに行きながら「これが最後かもしれない」と何度も思った。

 

亡くなった叔父の表情は安らかだった。

 

どうか霊界では病気は全てなくなり、自由に走り回ってほしい。

 

亡くなった人に
「天国から見守っていてください」
という言葉を伝えることがあるが、
よく考えると、叔父のように生きているときに物凄く苦労した人に対し
亡くなってからも「見守ってください」というのは少々言いづらい。

 

人を見守るというのは現実的に考えた時に、非常に大変なこと。
生きてる時でさえ、誰かを見守るって大変なのに。

 

それよりは叔父は自分の霊魂の救いの為に、いそしんでほしいと思う。
そして霊界を自分の足で、主と共に歩んでほしいと思う。

 

私は摂理に来て良かった、御言葉を聞いて良かったと思うことの一つに
「亡くなった人の為の祈り」
を知れたことがある。

 

私は少なくとも摂理に来るまで、亡くなった人の為に祈ることができることを知らなかった。
前述のとおり、見守っていてくださいとか、亡くなったあとすぐに無事に成仏できますようにとか、そういうことしか知らなかった。

 

その霊魂が
霊界で持続的に御言葉を学んで
悟れるように祈ってあげなさい。
-摂理 キリスト教福音宣教会 御言葉より

 

ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」
新約聖書 使徒行伝16章31節

 

叔父の中で、変えたほうがもっと輝けるところがあれば
霊界で治せることができるようにしてください。

 

叔父が最後に御言葉を少しでも聞けたこと、薬水を飲めたことを感謝します。
叔父の闘病生活40年、それより前からも共にしてくださっていた主に心から感謝します。

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