先日、我が母校の高校野球の試合にいって応援していた。
いま全国各地で行われている甲子園の地方予選大会。
私が元々マネージャーをしていたチーム。
お互い終始譲らない展開。
最後9回の裏。
三点差で母校がリード。
このままであれば勝てたはずだった。
しかし、相手校も最後まで譲らない。
ツーアウト満塁。
あと一つアウトをとれば勝てた。
そして相手校の主将は、走者一掃のサヨナラ3点二塁打を打った。
相手校はベンチから飛び出し、勝利の喜びにあふれた。
我が母校の大半は応援席含め、何が起こったのか一瞬分からないような。
そんな空気に包まれていた。
試合が終わると、次の試合の高校に席を譲るためにすぐにベンチを出ないといけない。
ベンチからあがってきた選手、少し離れたところで声をあげて号泣していた。
私も後輩と一緒に泣いた。
悔しいとかじゃなくて、何かこみあげてくるものがあって泣いた。
私はこの試合を見れて本当に良かった。
たぶん見なかったら
「なんで最後まで頑張らなかったんだろう」
とか
「三点差があったから油断したのかな」
とか思ったのかもしれない。
それも当てはまるのかもしれないけれども
この試合に関しては、その感想は第三者的な感じがしてならない。
私は今日の試合を最初から最後まで見ていて
母校の選手たちがとっても集中して、一球一球を大事にしていたのが分かった。
私がマネージャーをしていた我が母校。
母のような気持で見ていた。
一人一人がとってもかっこよかった。
直接見て、直接肌で感じると、数字だけ見るのとでは全く感情が違う。
実際に見ることの大切さを凄まじいほど感じた。
愛する後輩たちを通して神様が教えてくれた。
ただ新聞を読んで、ただニュースを見て、数字だけを見て。
それと、実際に見て触れるのとでは全く違う。
後輩たちが、最後の最後まで頑張った姿。
この試合を私は生涯忘れることは無いだろう。
サヨナラ負けをしてしまった母校の後輩たち。
愛する後輩たち。
誇らしい後輩たち。
結果がどんな風だったにせよ、神様が一人一人を愛していることには何ら変わりない。
後輩たちは
「一球の重みを知りました」
と口々に言っていた。
これからのほうが遥かに長い人生。
このときの経験は全く無駄にならない。
自分が最善を尽くして労苦し努力したことは、うまくいかなかったとしても、自分が最後まで諦めなければ、その労苦による運がいつもついて来る。
-摂理 キリスト教福音宣教会 御言葉より
始まりと終わりだけ見ると「一つ」だけ得て終わる。 「過程」も一緒に見ないといけない。 過程の中にさまざまな宝があるから、 貴重に得ながら行ってこそたくさん得ることができる!
-摂理 キリスト教福音宣教会 御言葉より
試合の結果だけ見ると悔しいこともたくさんあるけれども
でも過程でたくさんの活躍があり、たくさんのものを得られる試合でした。
目的をもって長い間、持続して行ないなさい。
そうすれば労苦した分、実を結んで得るようになる。
鄭明析牧師の明け方の御言葉より
三年間頑張った分、これからの人生により一層、神様が共にしてくださると信じます。
神様、可愛い後輩たちを今後ともよろしくおねがいいたします。