今日夜、聖殿を通りかかった時、聖殿の玄関を掃除してる人がいました。
周囲は完全に真っ暗。
その人以外、誰もいません。
掃除していたのは
Tさんでした。
Tさんは私が東京にいたときも同じ教会でした。
今はパパになり、二人の息子くんがいます。
聞いてみると、仕事帰りとのこと。
早く帰って、家族に会い、ご飯も食べたいだろうに。
いつもTさんは目に見えないところでコツコツ、地道に頑張る人です。
Tさんはそれを「普通」と表現しますが、ずーーーーっと常々、
目に見えないところでもしっかりやるのは
簡単に出来ることではありません。
私はたまたま見かけただけなので
きっといつも、誰も見ていなくても、神様を思いながら掃除しているのでしょう。
ビニールであろうがなんであろうが、すべて拾わなければいけません。
ある人はそれを見てもそのままにしておく人がいます。掃除したい心はあるけれども、不思議と拾うようになりません。それは自分を磨いてないからそうです。
心を磨いたとき、廊下も磨くことができます。
廊下を磨いた人が部屋も磨くことができます。だから、私は掃除しない人はとにかく心を磨いてないこととして見ます。それには理由がありません。私は心を磨いたから、そういうことを黙っていられません。何とかしてもやってしまいます。
1998年10月3日(土) 朝の御言葉(内側を清くしなさい)マタイ23:25-26
盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。
新約聖書 マタイによる福音書23章26節
御言葉を見ると、Tさんは心を磨いた人なんだということが証明されています。
誰も見てなくても、神様が見ている。
本当にそう思います。