全家庭からの虐待をどう防ぐのか?

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児童虐待の大きな弊害の一つに
そもそも児童虐待の基準が難しく
誰でも全員が理解できる状態にないことにある。

 

ある人は虐待だといい
ある人はしつけだという。

 

例えば、相手の命を奪ってしまうというのは
もちろん虐待に値する。

 

ただ、その中、親が子供の命を奪ってしまうほどの虐待の中には
一方的に親を責めることができない事案もある。

 

本人自身がDVDを受けていたり、過酷な育児環境の中でだとしたらどうだろう。

 

これは命を奪う虐待を肯定するものではないけれど
非難するだけでは第二、第三の事件を生んでしまいかねない。

 

自分が実際、保育の現場にいると
一番多い虐待のケースは
グレーゾーンのケースだ。

 

通報までいかない、だけれどこのままいったら虐待になってしまう。

 

また、虐待とも言い難いが、この子の将来 20年後、30年後を考えたときに
このままでは良い結果を生まないのではないかということもある。

 

家庭の中に少しだが入ってみると
誰か一人が悪いということは殆どの場合は無かった。

 

複雑に絡み合う家庭という場所の中で
完全に全ての家庭から虐待を防げるとしたら
まさに神業としか思えないのは
私が信仰心をもっているからではなく
本当にそう思う。

つまり、全家庭から虐待を防ぐのは
あまりにも困難だということを感じる。

 

児童相談所、警察、役所、保育園、幼稚園、小中学校など
様々な機関のかたが本当に尽力をつくしてくださっている。

 

それでも100%防ぐのは本当に難しい。

 

家庭というどこにでもありふれているのに
手をのばせば解決できそうなのに

 

時にはまるで遠い異国のように感じる家庭という場所。

 

少なからず、私も他の家庭に関わる立場にいるから
まずは自分自身を省み、そして家庭、日本という国の為に
たくさん祈り、少しでもできることをやっていきたい。

 

家庭という単位は小さくとも
そこに働く神様が必ずいる。

 

今まで自分のために熱心に生きて祈ったから、栄えたのではありませんか。また、家庭のために一生懸命に生きて祈ったから、それだけ栄えたのではありませんか。また、自分の民族のために熱心に生きて祈ったから、民族が栄えた分、自分も栄えたのではありませんか。

家庭のために生きて、家庭のために祈れば、家庭が栄える分だけ自分も栄えます。

民族のために生きて、民族のために祈れば、民族の分だけ自分も栄えます。

個人のために生きて、個人のために祈れば、個人の分だけ栄えるのです。

いつも自分自身と家庭と民族、この三つのために生きて、愛して、祈らなければなりません。一つでも抜けてはいけません。自分のために生きて祈りながら、家庭のために生きないで、祈らなければ、結局、自分が存在できません。

このように、民族のために生きないで、祈らなければ、民族が栄えない分、自分も正しく存在できません。だから、自分と家庭と民族のために必ず生きて、祈らなければなりません。

2010-06-20主日礼拝の御言葉より

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