思い浮かんだとき、感動したとき、興奮したとき、そのことを早速行ないなさい!
考えを与え、感動を与え、興奮させてあげたのに、しなければ、そのことは過ぎ去ってしまう。
「考え」は、走る車の車窓の背景が速く過ぎ去るように、瞬間瞬間、過ぎ去る。その時、その瞬間だ。
摂理鄭明析牧師の箴言 明け方の箴言より
人が「これをしたらいいかも!」とか思い浮かぶときって一瞬ですよね。
でも、一瞬が勝敗をわけ、一瞬が命運をわけることを 特に年齢を重ねた方はよく分かると思います。
私もそういう経験がありました。
それは私が9歳の頃。
小学校の休み時間に外で遊ぼうと友達に誘われました。
校庭は既に他の生徒達でいっぱい。
そこで「じゃあ、花壇のところで鬼ごっこをしよう」
という話になりました。
その瞬間、私は「嫌だなー」と思いました。
特に理由はなく、嫌だという思いだけがありました。
前日は雨が降っていて、土がぬかるんでいました。
そして。
花壇で鬼ごっこをしていたら、転んでしまって顎を切る怪我をしました。
およそ20針、縫いました。
今でもその傷は残っています。
あの時、もし「嫌だ」という感動を与えてくださった神様の言うことを聞いていたら
あんなに手術の時に痛い思いもしなかったし、一生残る傷を負うこともありませんでした。
このブログを読んでる皆さんも同じような経験がありませんか?
しかしこの経験は、生死を分けるほどのことではありません。
チョンミョンソク牧師は生死を分けるほどの経験をたくさんなさいました。
チョンミョンソク牧師ががベトナム戦争に行ったある時のことです。
敵が木の後ろに立っていて、牧師の胸に銃を向けていました。
3m位しか離れていなかったそうです。
その時、全地球を揺るがすような大きな声で「行って愛しなさい」と神様がおっしゃられました。
でもこの状況で誰が敵を愛することが出来るでしょうか。
「神様、私が愛したくても、行く間に彼が私を撃ちそうな気がします。」
「ああ、最後まで愛して天に行こう。しかし言葉が通じないから愛しに行くとも言えない。」
それでいけないで立っていたら
「行って愛しなさい」
と二度目、そして三度目、神様の声が聞こえました。
牧師は、第一歩を踏み出しながら自分の持っていた銃を離しました。
そして敵を抱きしめました。その敵、軍人の顔が100%、牧師の妹に見えたそうです。
もし牧師が敵を愛しなさいという考え通りにせずに敵を撃っていたら
相手も撃ってきたし、お互いに助からなかったことでしょう。
「私はあなたをどうして殺さなければいけないのか分からない」
敵もそうだと言ったそうです。
「すべて心に感じた者、すべて心から喜んでする者は
会見の幕屋の作業と、そのもろもろの奉仕と
聖なる服とのために、主にささげる物を携えてきた。」
出エジプト記35章21節
私が敬愛するマザーテレサも修道女として順調な人生を歩んでいたさなかの36歳のある日、
ダージリン行きの電車の中で突然「すべてを捨て、もっとも貧しい人の間で働きなさい」という神の声を聞きました。
そして貧しい人達に奉仕するようになりました。
神様が下さる感動、考えは本当に一瞬です。
今年も必ず神様が語ってくださるから、その一瞬を掴む一年になりますように。