ささらさやとキリストの心情

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現在上映中の映画ささらさや。
予告を見て感じた神様の心情があったので、書いてみたいと思います

サヤは夫のユウタロウを突然の事故で亡くしてしまう。
人に対して疑いを抱かないサヤが、一人で息子を抱えることを心配するユウタロウ。
成仏できずに、いろいろな人の体に乗り移って、サヤのために手助けをすることに。
のどかでどこか不思議な町ささらの人々に助けられながら、サヤは母親として成長する。
引用:yahoo映画より

 

神様は人を通して働かれると、
摂理のバイブルスタディ 無知の中の相克世界で教えてもらいました

 

神様はあまりにも人間を愛して愛して愛して
気になって気になって気になって、
この地上にいる人間たちといつも共にしてくださっています。

 

どうやって共にしているでしょうか

 

人を通して働く神様であり
時には「敵をも通して働く神様」だと言います。

 

誰を通して働くかは人間には予測できません。
神様しかご存じないのです。
私達が神様のことを分からなくても
神様は誰よりも近くにいらっしゃる方です

 

よく人々は、神様が遠くにいると考える。
人よりもっと近くにいる存在者が「神」だ。
人間は24時間近くに共にいることはできなくても、
神はいつもそばにいらっしゃる。
心の中にも脳にもつながっている。
摂理の鄭明析牧師 明け方の御言葉より

 

いつもどんな状況の中でも、
御子がいろいろと助けるということを知りなさい。
特に罪に陥ろうとするとき、
不義な考えと行ないに陥ろうとするとき、
そうならないように助けるということを分かって、
その助けを受け、勝ちなさい。
摂理の鄭明析牧師の明け方の御言葉より

 

神様が誰を通して一番働くのか?
聖書全体をひっくり返していくら読み込んでも
キリストの他ありません。

 

主のことは愛しながら主が遣わした人を愛さなければ、遣わした人を通して与える主の祝福を受けることができない。
ユダヤの宗教人たちは、神様のことは絶対に愛したのに、神様が遣わしたイエスを愛さなくて、イエス様を通して与える祝福を受けられなかった。
摂理の鄭明析牧師 明け方の御言葉より

 

この、ささらさやの予告編を見ると途中で
「私はこの子の母親です。私からこの子を奪わないでください。」
とあります。

 

母親が幸せになることを誰よりも望んでいるのは
映画だと死んだ夫になります。
その母親には、夫との間に産まれた尊い子供がいました。
子供を守る使命がその母親にはあったのです。

 

新約聖書でイエス・キリストが地上を離れる時に
このような弟子たちとのやり取りがあります。

 

ヨハネによる福音書21章15-17節
彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、
「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。
ペテロは言った、
「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。
イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
またもう一度彼に言われた、
「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。
彼はイエスに言った、
「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。
イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
イエスは三度目に言われた、
「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。
ペテロは「わたしを愛するか」
とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、
「主よ、あなたはすべてをご存じです。
わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。
イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。」
この地上を離れようとした最後、このように言い残しています。
キリストは、ただ離れたのではありませんでした。
「私の羊を養いなさい」とおっしゃいました。

 

よくイエス様は、神様を信じる人達を羊に例えました。
この後、ペテロは多くの人達に福音を述べ伝えていくことになります。

 

「私はこの子の母親です。
私からこの子を奪わないでください。」
と言ったように
ペテロをはじめとした弟子達は
<キリストの羊たち>、すなわち<神様がキリストが愛した人達>を
真実に愛して、サタンから守りきる人生を歩みました。

 

私もそのようにありたいと心から強く願うのです。
キリストを守って差し上げ、
そのキリストが愛する人たちまでも守る人生を。

 

神様を愛する人達には
その使命がはっきりと与えられているのです。
平和と愛で手本になり、御子と愛一体、心情一体になる使命があります。

 

忠誠、熱心、喜び、讃美、感謝、告白、時間を天の前に捧げても
「愛しているから、あげること」と
「心に感動があるから、あげること」と
「一緒に所有するためにあげること」と
「奉仕であげること」と
「分かち合うためにあげること」は異なる。
愛しているから、あげるというふうにしなければならない。
そうしてこそ、「新婦」だ。
摂理の鄭明析牧師 明け方の御言葉より

 

このブログを読んでる皆さんは
何を愛して守る人生を生きたいですか?

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