摂理で寂しい

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摂理に来て寂しいと思ったことがありました。
人が分かってくれない
指導者が分かってくれない
自分は一人だ
そんなことは一度や二度ではありませんでした。

でもそのたびに、しばらくすると気づくのです。
私の心とは比べ物にならないくらい、三位(サンミ)がどれだけ寂しかったんだろうと。

私達が生を受けて死ぬときまで
絶え間なく太陽の光を照らしてくださり
地球を動かしてくださり
星々を軌道から外れないように管理してくださり
危ない流星があったら回避させてくださり
空気がいつでも吸えるようにしてくださり
水を供給してくださり
常に私達が足らないものが無いように
食べ物から、万物から、人から、知識から、知恵から
全てを与えてくださり
この心身を与えてくださり、霊を与えてくださり。
数限りないものを与えてくださっている神様だけれども
どれだけ寂しかったのだろうと思うのです。

時には神様が送ってくださった救い主を放り出して離れていって裏切り
寂しい、わかってくれないなどありとあらゆることを言って去り
神様の胸に大きな釘を打ち込むようなことをしました。
そのような歴史がこの地球上で絶え間なく起こりました。
聖書を読み、御言葉を聞き、キリストのような人生を歩みたいと思って歩んでも
落胆することもあるし、何もかも嫌なことになったこともあるし
御言葉も聞きたくないし、祈りたくもないし
という経験がある人は一人や二人ではないと思います。

でも三位は、絶えず私達に働きかけてくださいました。

「あなたたちの考え、霊・魂・肉を見通している御子だ。
そういうことを考えるから
そういう自分がまたもっと嫌なのだろう。
だからもっと落胆するのだろう。

大丈夫だ。あなたの心を全て理解している。
もう一度やってみよう。
私が助けてあげる。

私が肉があるならひざまずいてでも、
あなたの前で切にお願いしてでも、
あなたをおんぶして行きながらでも
あなたを助けてあげ、引き上げさせたい私の心だ、私の心情だ。」

私はこの摂理の御言葉を聞いて涙するしかありませんでした。
三位は以前から今も変わらずこのような心を持っています。

そうでなければ、2000年前に亡くなったキリストを
再びこの世に送るとどうして言えるでしょうか。
神様の立場にしたら、二度とキリストを送らなくても誰も文句は言えないのではないでしょうか。

神様は私を寂しくさせません。
そして兄弟姉妹も指導者も寂しくさせる人はいません。
寂しくさせたのは私の心と、サタンのつけ込みによると悟ったんです。

「私が肉があるならひざまずいてでも」
とありましたが、三位は肉、つまり身体がありません。
私も三位の身体になって、三位のそのような心を伝える人になっていきたいです。

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