摂理人RIOの新聞メディア報道への思い

  • URLをコピーしました!

知らなくて「不義」を行ない、無知で「不義」を行ない、
自分が完全でなくて「不義」を行なう。

摂理の鄭明析牧師 明け方の御言葉より

新聞報道は人間によってつくられているもの。
あらゆる各種メディアがそうであることは皆知っている。
でもそれを忘れてしまうことが私はあった。
新聞報道が正しいことのように思えてしまうのだ。
報道の世界で働いている知人が、具体的な例を一つ教えてくれた。
これが各社で報道されたら
それこそ日本がひっくり返るかもしれない。
でも報道されない。
ある新聞社は、とある事件に家族が関与したということで
新聞そのものまで全て失うことになった。
当たり前の事実だが、書く人がいなければ新聞は発行されないのだ。
幼い私には不思議だった。
いつもそばにあった新聞が
作ってる側がいなくなったことで新聞もなくなった。
人間が人間に伝えるために、新聞報道は存在する。
各種メディアは存在する。
例えば道を歩いていたとしよう。
道端で通り過ぎる人のことを最初から100%信用できるだろうか。
全く知らない人のことを、いきなりゼロから信頼せよといわれても
それこそ「盲目に信じる」ことに値しないだろうか。
でも新聞を書いてる人とは、はっきり言ってしまえば
何の縁も無いのに、何故信じてしまうのだろう。
誰か知らない人から突然手紙が届いて
その内容を信じろと言われたら信じられるのだろうか。
じゃあ「全部疑え。」
と言うのも無理がある。
私は新聞記者の方々に直接会ったが
とても一生懸命な方々だった。
メディア=悪とは完全には言えない。
メディアリテラシーを私も何度も学んだ。
でもメディアリテラシーを学んで終わっていては
判断する武器として使えない。
結局最後に何が正しいのか判断するのは自分自身だ。
その自分は完成されてない自分なのか、
それとも完成された自分なのか。
私は後者であるべく、今日も奮闘中である。

本当に作った人は変わらない。
再び以前の状態に戻ることはない。
変わる理由は何か?まだ作られていないからだ。

摂理の鄭明析牧師 明け方の御言葉より

  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次