多くの弟子をもつということは、それだけ心を痛める機会も多い

御子も寂しい時がある。

私達を愛するからこそ寂しいという。

家族を、友達を、大切な人を愛したことがある人はみんな分かる。

愛するということは時として寂しさを産む。
 

神様は生きてる神様だから心がある。

人間も生きてるから心があって感情があるのと同様だ。

 
神様はこの世をただ愛で創られたという。

愛で創られたけれども、じゃあずっとただ微笑んで

「人間よ、愛してる~」

というだけだったら楽だったはずだ。
 

でも。

子供も誰かが育てないと自分で育つのは無理なように

神様も人間を育てた。
その道は並大抵のことではなかった。

親が子供を育てる時ももちろん愛で育てるが、いつも嬉しいだけだろうか。

子育てを経験した人はよく分かる話なんだと思う。

私も子供教育の端くれなので少しは分かる。

喜びが上回るけれども、心が痛い時の方が多い日もある。

摂理の鄭明析牧師も多くの人たちを育てる中で、人々に囲まれてただ微笑んでいる、ただ偉そうとか

そういう人ではない。
鄭明析牧師の心はただ愛だった。

表面的に見ると誤解を生むことも多い。

人々に囲まれているかのように。偉そうに思う人もいるのだろう。

でも私が見てきた鄭明析牧師は本当に違った。

多くの弟子をもつということは、それだけ心を痛める機会も多い。

人を管理する立場にある人は皆、分かることだと思う。

それでも弟子たちを愛する気持ちで、友人のように親しく接してくれた。

しかし。

摂理の鄭明析牧師は事件を起こした人。

逮捕された人。

被害を起こした人。

実刑判決を受けた人。

だから間違いだと。

摂理が間違いだと。
そのように言う人もいる。

 

私はそうは思わない。

何が正しいか、何が正しくないか、
最終的に判断するのは結局、自分自身だ。
自分自身の心と考えだ。

私は私が見たことを伝えていきたい。
知らせていきたい。

これは私の生涯をかけてやり遂げたい。

 

聖書で数々の人々がそうであったように。

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